ヴェルナー・ヘルツォーク監督『神に選ばれし無敵の男』
ジシェの伝説には、現代人のユダヤ人イメージをも揺さぶるものがある。ナチによるホロコースト映画などを通じ、日本人はユダヤ人を、物静かで痩躯、教養豊かで文化・芸術に深い理解を持つ、ひ弱なインテリと思いがちである。世界一の力持ちが、ユダヤ人だとは、想像もしないのではないか。
ヴェルナー・ヘルツォークが久しぶりに手がけた劇映画「神に選ばれし無敵の男」は、「もし このジシェが、ナチ台頭期のベルリンに生きていたら?」と想定した、オリジナル・フィクションである。
ヘルツォークは「アギーレ・神の怒り」「フィッツカラルド」と、夢に取り憑かれた男の、狂気に似た妄執を描く監督として、人気を集めている。だがこの作品には彼のもう一つの性向、マイノリティが示す純朴への憧憬が強く表れている。「闇と沈黙の国」「カスパー・ハウザーの謎」「緑のアリの夢見るところ」では、西洋近代が周縁、あるいは未開と蔑む世界・人々の内に、ノーマルな精神と世界観が宿っていた。「小人の饗宴」「ノスフェラトゥ」のフリークス趣味も、右記の健全さへの志向の延長線上に位置づけるべきだろう。ヘルツォーク版ブライバルトは、こうした「マイノリティの健全さ」を体現するアイコンである。
メイン・タイトルはポーランドの地方都市(ウッチとは確定されていない)で、商いや工業に励むユダヤ人の姿が丹念に描かれてゆく。この巻頭だけで、当時を生きる東欧ユダヤ人の生活感が、活き活きと伝わってくる。七〇年代から卓越した記録映画を作っているヘルツォークらしい映像だ。
ジシェを演じるフィンランド出身の重量挙げ選手、ヨウコ・アホラの存在感が素晴らしい。映画の中のジシェは、鍛冶屋の稼業に励み、両親を敬い、利口な幼い弟の言葉に謙虚に耳を傾ける、好青年だ。その姿はヴァーグナーが「パルジファル」で描いた、「聖なる愚者」をも想起させる。本物のアスリートのみが身につける強靱な肉体が、無口なジシェの思いや考えを、目で見せてゆく。
ヘルツォークはこの「無敵の男」を1932年に導入するにあたり、魅力的な詐術を施している。ジシェはスカウトされベルリンの「オカルトの館」で働き始める。支配人はE・J・ハヌッセン。ユダヤ人の出自を隠し、ヒトラーやアーリア人種を礼賛する見せ物を仕掛け、占星術などのオカルトの力でブルジョワの支持を獲得。政界進出を企てた出世欲の塊である。彼の許でジシェはアーリア人の英雄、ジークフリートを演じるのだ。
ところが予想に反し、純朴なるジシェと、欲望の権化ハヌッセンの間には、劇的緊張は生じない。ティム・ロス演じるヘルツォーク版ハヌッセンは、素っ気ないほど魅力に乏しい、山師の俗物に過ぎない。「オカルトの館」の美術や演出も子供だましな見せ物と感じるほど安っぽく、頽廃や神秘の匂いは漂ってこない。
オペラ演出の経験があるとは言え、過去のヘルツォーク映画は、文化が爛熟した末に生み出す香気を描いては来なかった。ことによると、監督はデカダンスに関心がないのかもしれないが、これはむしろ無辜なる男の目に映った「都市文化」の実像と見るべきではないか。インテリや俗物のデカダンスは、健全なるジシェの前、化けの皮を剥がされる。ナチの台頭、ユダヤ人排斥運動という禍々しい風潮が、実は不気味ですらない愚かさから生まれていると、明らかにしてゆくのだ。
難を言うなら、全編が英語である点に違和感は強い。また、ベルリンの街を捉えるロング・ショットが皆無なことや、1935年の国会議事堂炎上場どのスペクタクルに迫力が感じられないなど、首を傾げる箇所は少なくない。
しかし監督がテーマに取り組む姿勢は一貫している・「ユダヤ人はひ弱だ」「ナチの文化は頽廃的で不気味だ」という、二つのステレオタイプをまとめて覆し、偏見に修正を迫るこの作品は、やはり注目に値するものだ。
そして一番痛烈なアイロニーは、ラストに待っている。故郷に帰ったジシェは同胞にナチの脅威を語り、決起を呼びかける。その叫びはユダヤ教のラビの一言で、「傾聴に値せず」と退けられてしまう。ここで生じる無力感は、ユダヤ人の純朴さを脱神話化し、前近代的な家長主義社会システムが、世界認識を狭めるという、今なお続く問題点をグサリと刺す、監督の視点の表れだ――こう受け止めるのは、私の穿ちすぎだろうか?
[『キネマ旬報』第1382号(2003年6月上旬号)]
(c)BABA Hironobu, 2003/ 2021. All rights reserved.
本サイトのすべてのソースを、作成者の許可なく転載・出版・配信・発表することを禁じます。