それを製作・興行状況の変化のせいにはできない。「億単位の製作費を投じた日本映画は、もう作れない」というのは嘘で、大林宣彦や森田芳光、大森一樹らは、毎年のように、その規模の新作を発表しているのだから。
高嶺監督が新作を作れなかったのは、批評と観客のせいではないか? 『ウンタマギルー』を楽しみながら、その魅力をの本質に肉薄する格闘を、受け手の側が怠っていたからだとは言えないか?
このような現状のもと、「市民プロデューサーシステム」という、製作畑と無縁の観客を含む出資者の力で、新作『夢幻琉球・つるヘンリー』が完成した。我が身の怠慢を恥じると共に、出資者諸氏の尽力に、感謝せずにはいられない。9年の時を経て、高嶺監督は『ウンタマギルー』よりさらに豊かな傑作を作り上げたのだから。
主人公と呼べるキャラクターを設定せず、場と時制を自由に往来する語法は、一見コラージュのように乱雑かもしれない。職業俳優をほとんど起用しなかったことが、ビデオ映像とあいまって、素人臭さを感じさせるかもしれない。
しかし、大詰の連鎖劇で、「燃えながら生き続けるジェームズ」の姿に触れたとき、心の中に、何か消しがたいものが残るはずだ。
そんな“消しがたいもやもや”を、放置しておかないで欲しい。もう一度、劇場に足を運び、作品に向き合ってほしい。
そうすれば、複数ある映画のストーリー・ラインは、すべて論理的に解決されていると分かる。俳優たちの演技も、『パラダイス・ビュー』『ウンタマギルー』とは異なる方法論で、綿密に計算されていると納得がゆく。
また、高嶺監督がそれぞれの映画を、大きなひとつの作品の一里塚として、作るタイプの芸術家であることにも気づくはずだ。
一例を挙げると、「つる」の沖縄語発音が「チルー」だと分かれば、この映画が『ウンタマギルー』のラストの想像妊娠(?)に直結すると明らかになる。
つまり『夢幻琉球・つるヘンリー』と格闘することで、『パラダイス・ビュー』『ウンタマギルー』にこめられた、作り手の思いをも改めて、より深く理解できるだろう。
その上で、『夢幻琉球・つるヘンリー』の最大の魅力が見えてくる。個人の歴史と政治・国家の歴史、文化の歴史を同一の映画時間に走らせ、現実と非現実の世界、意識の流れや伝説を同レベルで描写する手法が。(その象徴が連鎖劇のジェームズのセリフ「ぼくの存在を、風景として見てほしい」だ)
これは複雑な手法ではない。そもそも、ひとりの人間の生の瞬間自体が、上記のような、様々な記憶や社会の集積なのだから。
つまり、観客はこの映画を「生きる」。それが、『夢幻琉球・つるヘンリー』に接する、観客の誠実な姿勢であると思う。
私の乏しい映画知識では、類似の手法による成功作は、タルコフスキイの『鏡』と、ロバート・クレイマーの『マント』(97、これもデジタル・ビデオ作品)しか知らない。
高嶺監督は、いま、映画の新たな領域に向かって、歩みを進め始めたのだ。
自己表現と自己満足を取り違えた作品は、固定した世界観を観客に押しつける。そこに見る側のイマジネーションが介在する余地はない。イメージの暴力的強制があるだけだ。
私はそれが恐ろしい。イマジネーションを欠いた人間は、他人の痛みを理解しないから。だから、平然と他人を傷つけ、虐げるから。
『夢幻琉球・つるヘンリー』はその対極にある作品である。高嶺監督は、自分の世界観を押しつけない。作品によって観客のイマジネーションに呼び掛け、現代社会と非暴力闘争を続ける芸術家なのだ。
だから、一切の先入観を抜いて、『夢幻琉球・つるヘンリー』に向き合い、作品という「他者」と、触れ合おう。鮮烈なイメージの連続に身を委ね、まずは圧倒されよう。
そして心に残った“消しがたいもやもや”の正体を見極めるために、何度もこの映画を見よう。作品の、他者の魅力に反応し、食い下がる力、それをイマジネーションというのだ。
現在高嶺監督は次回作『ラブーの恋』の製作準備中だそうだ。今度の予算は億単位。今回同様の製作資金では、まず実現不可能だろう。しかし監督は「これを作らずには死ねない」と語っている。
『ラブーの恋』が作られないとしたら、今度こそ、イマジネーションを放棄する、観客と批評の罪である。
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