フレディ・M・ムーラー インタヴュー

(2000年6月、東京)


Many Thanks to Mr.Fredi M. MULLER,
who allowed me to upload this article-text on this web-site!




 『山の焚火』でしかフレディ・M・ムーラーの名を知らない人は、13年ぶりの長編劇映画『最後通告』に、当初戸惑いを覚えるかもしれない。

  だが自主上映された「われら山人たち」(74)や「灰色の領域」(79)を知っていれば、ムーラーが現代社会の問題点を真正面から突く映画を作ったことは、自然なこととして受けとめられるだろう。

  今年60才、シネアストとして38年のキャリアを持つムーラーにとって、『最後通告』は、過去の作品の集大成的意味を持つ。

  同世代のドイツ語圏スイスの作家でも、ファスビンダーの影響を強く受けたシュミットと比べ、ムーラーの歩みは軌を異にしている。

 「政党に属したり、デモに参加したことはないが、自分は68年世代に属している、と言って良い。作品を通じて、社会を変革したい、変革できると考えていた。68年以降、確かに社会は改善された面もある。しかし、同じ68年世代が、その後30年、何をしてきたのかというと、答は否定的だ」

 『最後通告』は68年世代、およびそれに続く若い世代が中核をなす社会で、その子供たちが、スイス各地で、満月の夜に同時に失踪してしまうことから始まる。

  そこに浮き彫りにされてくるのは、原発の恐怖、元急進的環境運動家の末路、神経症に苦しむワーキング・マザー、不況のもと台頭する人種差別など、「大人になれずに親になってしまった世代」の人間模様だ。

 「スイスで公開されたときには、この世代から大変ヴィヴィッドな反応があった。どうやら自分たちの姿を鏡に写して見るような感情を持ったらしい」

  子供たちを捜し出そうとして、親も警察も、結局は自分の枠に固執し、エゴをぶつけ合うばかり。そしてラストで、再び同じ過ちを犯してしまう。

  この作品は「90年代の悲惨な社会状況のなか、犯罪などの犠牲となって命を失ってしまった子供たちに対する、大人からの懺悔とレクイエム」なのではないか?

 「的確に受けとめてくれてありがとう。この映画では、結局大人たちは、自分の責任を他人に押しつけることで終わってしまう。アメリカ映画的ハッピー・エンドは作りたくはなかった。ある意味で、とてもラジカルな幕切れかもしれない。だが『山の焚火』と同じく、私はラジカルな物語の終わらせ方が好きだ。ギリシャ悲劇が、荒唐無稽にすら見えるドラマを持ちながら、いまなお生き続けているのは、結末のラジカルさのおかげだと思う。今の私は、芸術作品で世界を変えられると期待してはいないが、ギリシャ悲劇的なラジカルさには、観客を動かす力があると信じている」

  前作に続き、『最後通告』にも、超自然的な世界、人間の五感を超えたところにある世界への眼差しがある。今回はそれが「子供の世界」として提示されている。

「私自身はカトリックの家庭に生まれ育ったが、16才の時に意識してキリスト教から離れた。信条として今の私はダーウィニスト、またある種のアニミズムに近いところにいる」

「映画監督として、目が見えなくなる恐怖は常に抱えている。子供の頃ちょっとしたことで失明の危機に瀕したことがあり、それが今でもトラウマになっているのだろう。だがそのおかげで、見ること・聞くことの大切さを意識するようになった。『山の焚火』に続き、目が見えない人の記録映画「他人の目で見る」(87)を作ったとき、彼らの聴覚の敏感さ、豊かさに大変衝撃を受けた。自分でも目隠しをして生活してみたのだが、するとこれまでは聞こえなかった、いや、自分が聞いていなかったものが聞こえるようになるんだ」

  この監督の体験が『最後通告』にどう反映されているかが、作品の真のメッセージと密接な関係を持つ。

  大人の世界と「子供の世界」の仲介者として犬や猫が登場するのも興味深い。

「スイスでは犬を飼うことは、社会的ステイタスの誇示だ。大人にとって動物は"もの"だが、五、六才の子供から見れば、人間と同じ生き物。自然の一部で、しかも大人に対してより犬や猫の方に親しみを覚える」

  映画のクライマックス、「子供の世界」には、謎の数列が登場する。

 「満月の度に子供が12人消え、累乗的に増えていくとすると、年間で3億人がいなくなる計算になる。大人たちが、もう少しだけ子供のことを考えてくれたら、3億の命が救われるかもしれない。そんなメッセージを込めた」

 「一番訴えかけたかったのは「子供の世界」への回帰だ。子供の頃の理想やラジカルさを、持ち続けることが大切なのだ。私は人間の創造性は、10才で頂点を極めると思っている。しかし現代では学校や社会により、自分のなかの「子供」的なものがすべて殺されてしまう。これは危険なことだ。「子供」の心を持って、自然の支配のもとに生きること。それが「終わりの始まり」なのだ」

  作品の静けさとは裏腹に、今年60才のムーラー監督は、大らかな性格。インタヴュー中は手品まで披露してくれた。

 「私自身、13才で成長が止まったような人間でね(笑)。たとえばパイロットになりたかった少年が、クレーンの運転士になったら、?空に近いところで仕事ができる分、少し夢がかなった?と思えたら人生は豊かになる。私の言う「子供の世界」というのは、そんな純粋な前向きさでもある」

  もし『最後通告』を見て、心をまったく動かされないとしたら、あなたは間接的に、身近にいる子供たちを、世界の未来を殺しているのだ。20世紀末にムーラーは『山の焚火』以上に、美しく、怖い作品を放ったのである。

(取材・文/馬場広信)

[『キネマ旬報』2000年7月下旬号に、一部加筆]
 

(c)Fredi M. Muller & BABA Hironobu,2000/ 2021. All rights reserved.

本サイトのすべてのソースを、作成者の許可なく転載・出版・配信・発表することを禁じます。



"Office NESHA Movie Guide"へ

オフィス・ネーシャ・アーカイヴ トップ・ページへ