岩波ホール閉館に寄せて
日本ATGに始まるアート・ハウス映画館61年の歩みの果て
馬場広信
(本稿は2022年下半期、オフィス・ネーシャより刊行予定の電子書籍『岩波ホールの足跡』[仮題]準備に向けたワーキング・ペイパーです。なお、高野悦子の「高」は正しくは旧漢字です。サイトの文字コードが対応していないため、本稿では「高野」と表記しました。御了承ください。文中敬称略。)
東京都神田神保町にある映画館、岩波ホールが、2022年7月29日をもって閉館する。この日をもって日本から、1本の映画を終日、4週間以上上映する映画館は姿を消すこととなる。同時に国立近代美術館フィルムセンター(現国立映画アーカイヴ)設立に尽力した川喜多かしこ(1908-1993)が、日本アート・シアター・ギルド(以下「ATG」)立ち上げて以来、高野悦子(1929-2014)に引き継がれた、興行上採算が難しく別の映画館では公開できなかった作品を日本に紹介し、批評と口コミの力で粘り強く普及させるサーキットが閉ざされるのである。
1.真のアート・ハウス系映画館が東京から消える
前者については詳しく述べるまでもないだろう。2022年2月現在、東京はじめ大都市には少なからぬアート・ハウス系(俗称ミニ・シアター)の映画館はある。だがほとんどは複数のスクリーンを持ち、新作を公開しても朝から最終回まで丸1日、同じ作品を上映し続けるのはせいぜい2週間だ。以後は1日に2回あるいは1回の上映となり、同じスクリーンで別の作品も上映する形態を取っている。つまり平日の夜にしか映画館に行けない観客は、最初の2週間ないし1週間を逃すとスクリーンで見る機会を逃してしまう。口コミやウェブで作品を知り、映画館で見ようと思ってもかなわないことが多くなっている。特に近年の興行形態では、夜の部は20代から30代の観客の動員を見込める作品を上映する傾向が強い。かつそのスケジュールも前の週の動員を集計してからウェブ上で発表される場合が多いため、7日後に映画を見る予定がアート・ハウス系作品では立てづらくなっている。
こうしたモザイク式番組自体は否定されるべきではない。筆者が知る限り1980年代のパリのアート・ハウス映画館はすでに同様の上映形態を取っていた。長所は評判の高い作品を映画館で見る機会を長く提供できることにあった。日本公開時の宣伝文句で「パリで1年以上ロングラン」と謳われている作品の多くは、こうした上映形態で週1回の上映でも続いていた。その一方で同じ映画館が4週以上1本の作品だけをかけ続ける形態は廃れていた。映画のデジタル化に伴いプリント(上映フィルム)を作成したり、輸送する手間がほぼなくなったことで、同様の波が日本にも行き渡ったのだ。1つのスクリーンで複数の作品を上映するには、プリントを保管する場所が必要になる。日本のロードショー館には、3作品以上の上映プリントを置いておく場所はなかった。それがデジタル化により、主に USB メモリーへとメディアが移行して可能になった。ロードショーの番組にヨーロッパ並みの柔軟性を持たせることができ、今日のモザイク状スケジュールがアート・ハウスでできる時代を迎えている。中には12週以上この形式で上映され続けるものも出てきているので、情報さえ的確に得られれば映画を見る機会は増えている面もあることは歓迎すべきだろう。
問題はこの「情報を的確に得る」ことが困難になっていることにある。劇場や作品のウェブサイトや SNS をまめに見ていれば分かるとは言うものの、雑誌の時代のようにハリウッド大作から自主上映、映画祭まで、同時に一度に確認できるメディアは今の日本には、ほぼない。どこで何を上映しているか知ったときには公開終了間近となっていることが頻繁となった。これは興行形態の変化であると共に、速報性を伴う映画批評がほぼ絶えたことも意味する。2022年、日本で映画は遅れてやってくる。情報を得たときには見られなくなっている。ましてアート・ハウス系の作品は各種ストリーミング・サーヴィスのライン・アップに入ることが極めて稀だ。フル・ハイヴィジョンにテレビが移行して以来、DVD はブロック・ノイズが目立つ貧しい媒体となってしまい、Blu−ray ディスクはメジャー系作品以外あまり商品化されない。動画ソフトの問題点についての議論は別の機会に行うとして、ジャン・マリー・ストローブとダニエル・ユイレに倣って言うなら、映画はあまりに遅くやってきて、あまりに早く去ってしまう。
この早すぎて遅すぎる映画作品を、朽ちかけた批評精神をもって観客のために留め置いた映画館こそ岩波ホールなのだ。特集上映を除き、ほぼすべての映画を最低4週間、フィルム上映時代は原則1日3回上映を配給会社に保証し打ち切りはしない。当初は上映作品を岩波不動産ホール部社員全員が見て上映の可否を判断し、ポスター宣伝コピー、字幕内容にまでホールの意向を反映させる。つまり岩波ホール自体が作品を批評し、上映が決まると愛情を込めて宣伝を行い、前売り券の販売営業まで行う姿勢を高野の没後も当面引き継いだ。1970年代以降に顕著になった、映画館が配給会社に対し「作品を上映させてやっているんだ」「うちの映画館がこの作品を、監督を日本に送り出したんだ」というような山師のようないかがわしさ(批評家や映画学者、映画エッセイストにもこうした輩は21世紀初頭までいた)をまとわず、1本の映画を日本に紹介する責任を引き受け続ける場、それが岩波ホールだったのだ。
2.岩波ホールの先駆け、日本アート・シアター・ギルドの13年
さて、岩波ホールは1969年に開館したので、今年2022年をもって53年の歴史を閉じるのだが、この小論の副題に「61年の歩み」とした。それは川喜多かしこが1952年に開始したフィルム・ライブラリー助成協議会(後にフィルム・ライブラリー協議会、現川喜多記念映画文化財団)と平行して1961年に設立したATGによる外国映画提供・公開の延長線上に岩波ホールの映画館化を位置づけられるためである。
話が散漫にならぬよう、ATG設立の経緯と洋画公開活動に話を絞ろう。川喜多かしこはヨーロッパの国際映画祭に日本映画を積極的に出品するよう推進すると同時に、そこで目にした優れた外国映画が様々な理由(興行上難しいこと以外に、当時洋画輸入には会社ごとに本数制限があった問題なども絡んでいる)で上映できない(いわゆる「お蔵(くら)入り」の)状況を打破しようと、東宝を中心に複数の会社の出資を受け、配給会社ATGが発足する。東京では現マリオンにあった実演劇場日劇の地下のニュース映画専門館を、日劇文化と改称し拠点とし、翌1962年三和興行の新劇場、新宿文化(現レインボービレッジ新宿文化ビル)、および他の都市でも東宝系などの映画館とチェーンを組み、4月ポーランド映画『尼僧ヨアンナ』を第一作として公開する。これは川喜多が当時副社長をしていた東和株式会社(現東宝東和株式会社)配給の新作だが、以後は1940年代後半から50年代製作の錚々たる名作を上映していき、1974年までに72本の長編映画と数本の短編映画を公開していった。
後にATGは日本のインディペンデント映画の配給、やがて製作にも乗り出してゆく。そして洋邦ともに映画のシナリオ(洋画の場合字幕原稿)を収録した劇場売りパンフレット「アートシアター」を編集、会員制度を取り割引の他にこのパンフレットを販売した。1960年代には周辺で各種小劇場の演劇公演活動が盛んになったことも手伝い、カウンター・カルチャーの中心地となった新宿文化がATGの代名詞となり(地下には日本のマイナー映画を上映する「蠍座」があった)、独特の雰囲気のある一角をなしていたという。ただ、その屋台骨を支えていたのは川喜多かしこと、東宝を中心とする大手映画会社だったことは、熱心な映画ファン以外にはあまり認識されていなかった。
ところが1974年12月を最後にATGは外国映画の配給・公開を止め、日本映画製作のみの会社となってしまう。大きな契機は新宿文化がアートシアターを外れ、より利益が見込める東宝系洋画封切館に変わったことにありそうだ。1974年以前に大映は倒産、日活は盆暮れを例外に成人映画だけを作る会社になっていた。潰れた映画館は当時流行っていたボーリング場、やがて駐車場などに姿を変えてゆく。映画業界の不況は深刻さを増していた。そして74年新春第一弾として、松竹・東急系はワーナー配給作品『燃えよドラゴン』を拡大ロードショーして大成功を収める。それまで銀座・渋谷・新宿の映画館街では、1つの街あたり1館で新作ロードショーをかけていたのを2館に広げたのだ。結果『燃えよドラゴン』、続く夏休み公開の同じワーナー作品『エクソシスト』は社会現象になるほどのメガ・ヒットを記録した。日本の興行界は複数の作品で薄利を得るより、博打のようにメガ・ヒット作でより大きな収益を得る方向に舵を切っていた。皮肉なことにこの1974年には東宝系『叫びとささやき』(みゆき座)と松竹・東急系『フェリーニのアマルコルド』(当初丸の内松竹公開予定だったが、先行作品の興行失敗により丸の内ピカデリーで公開)が惨憺たる結果となり、作品の質と興行が反比例する傾向に拍車がかかる。東宝としても松竹・東急系の成功に倣うほかなかった。川喜多の志は風前の灯火となっていた。
ここで川喜多かしこが買い付けていたインド映画が、岩波ホールを映画館とする契機を作った。サタジット・レイの『大樹のうた』である。「オプー三部作」の先行する2本、『大地のうた』、『大河のうた』は川喜多が買い付け、ATGで公開していた。だが1974年のATG洋画公開作はもともと別の映画館で公開する予定だった作品が割り込んでくる様相で、「アートシアター」すら作成されなかった。ATG最後の洋画は東和配給『アンドレイ・ルブリョフ』(確証は取れないが、当初有楽座公開予定だった可能性が高い)で、最初から正月映画公開前2週間限定と決まっていた。
3.川喜多かしこと高野悦子:岩波ホール=エキプ・ド・シネマという映画公開運動
そこで川喜多は『大樹のうた』公開を旧知の高野悦子に打診する。もともと講演会用に作られた岩波ホールは、岩波書店とは別会社で、貸しホール業務の傍ら自主企画の講演会や伝統芸能公演、朗読会、時には主催の演劇公演を行っていた。そこに高野は「岩波映画講座」と題し、まず鈴木清順まで含んだ「講座・戦後日本映画史」全60作品を上映し成功を収める。続けて日本映画と併せ高野が学んだフランスなど各国の映画史研究シリーズや、文化映画と呼ばれる記録映画の特集上映を続け、古典作品を再発見する機会を提供していた。この際フィルム・ライブラリー協議会が外国映画のフィルム調達に一役買っていたらしい。そこでATGという出口を失った川喜多が高野に『大河のうた』を岩波ホールで上映したいと打診したのだ。そこから岩波ホールを、お蔵になっている映画の窓口とするべく、「エキプ・ド・シネマ」(高野はフランス語で「映画の仲間」だと説明しているが「映画撮影機材」「映画製作スタッフ」という意味もある)活動の拠点とするプロジェクトが立ち上がる。そしてビルの1階の守衛室を切符売り場に仕立て、1974年2月12日から5週間、『大樹のうた』がエキプ・ド・シネマ配給で公開された。
ここまでお読みいただければおわかりの通り、「エキプ・ド・シネマ」の会員制度も、シナリオ収録パンフレットもATGのやり方に準じている。つい先年まで採録シナリオを収め、文化人・知識人の随想を掲載する編集方針は、その後日本ヘラルド映画が出資して新宿歌舞伎町に開館したシネマスクエアとうきゅう、セゾン・グループが経営したシネ・ヴィヴァン六本木をはじめとするアート・ハウス映画館のパンフレットも踏襲してゆく。その原型となったのは、岩波ホールというより「アートシアター」が確立していたのだ。
ただ、岩波ホールは1974年からすぐに新作封切り館になった訳ではない。『大樹のうた』以降も貸しホール業や主催演劇公演は続いていた。映画専門館になったのは1980年代に入ってからという証言すらある。事実新作上映期間中にもホールで「岩波市民講座」という講演会はしばらく続いていた。70年代末に高野自らカンヌ国際映画祭に出向くようになり、公開したい作品に目星を付けるようになってくるので、それが形になってから、という面もあろう。加えて1985年第1回東京国際映画祭の1セクションとして「カネボウ女性映画週間」が開催され、高野がそのスーパーバイザーになったのを機に、真の岩波ホールらしさが生まれてきたとも考えられる。
その一方で、1980年までに岩波ホールで封切られたライン・ナップを見ると、ATGの後継の色彩が強い。サタジット・レイ以降公開された順に並べると、ロベール・ブレッソン、イングマル・ベルイマン、フェデリコ・フェリーニ、マイケル・カコヤニス、アンドレイ・タルコフスキー、ルイス・ブニュエル、アラン・レネ、フランソワ・トリュフォ、セルゲイ・エイゼンシュテイン、アンジェイ・ワイダと、いずれもATGで配給・公開されたことのある監督の作品が目立つ。(ヴィスコンティにATG公開作品はない。デ・シーカは『ウンベルトD』がATG公開。)ATGと決定的に違うのは、Aランク国際映画祭で賞を獲っていない、映画産業的には小国と呼べる土地の作品を積極的に紹介したことだ。これも長編に限って公開順に並べるとエジプト、ブルガリア、ハンガリー、コート・ディヴォワール、ジョージア、ルーマニア、ポルトガルの映画が70年代に公開されている。このなかにはヤンチョー・ミクローシュのように、日本で無名なだけだった鬼才監督の作品もあるにしても、当時としては大きな冒険だった。80年代以降も「映画小国」の新作(完成直後ではないにせよ)は、アジアや南米作品を含め積極的に公開されていく。加えて羽田澄子監督作品を商業ベースに載せた功績は計り知れない。
もう一点、岩波ホールは単なる映画館と異なり、同館上映作品の地方公開に向けて独自に営業を行った。高野自ら日本全国に出向き、上映会や、ときには劇場向け営業活動も行っていたらしい。そのネット・ワークは同館が上映とは別に、日本各地の小規模な映画祭開催の交渉窓口業務を行っていたことによっても広がる。映画祭の主旨と予算に合わせ、上映作品の提案やプリントの調達まで、岩波不動産ホール部の社員が行っていた。エキプ・ド・シネマとはまさに映画上映実働部隊(エキプ)だったのだ。
80年代にアート・ハウス系劇場が東京に多数できると、かつて岩波ホールで紹介された監督の新作が別の劇場で公開されることが増えた。高野はそれを絶好の機会到来と見て、85年以降女性監督やプロデューサの映画を積極的に岩波ホールに持ってきた。1本の映画を半年、時には1年以上上映する冒険的興行形態にも打って出た。また、彼女の眼鏡にかかった監督の新作を交流のない配給会社が買い付けると、強力に岩波ホール公開に誘致した。配給会社側もエキプ・ド・シネマの会員を核とした固定ファンを魅力と感じ、その希望に応じることが少なくなかった。
4.21世紀の岩波ホール:映画館の色を保った最後の砦
それが21世紀に入ると、かつて岩波ホールで作品を上映し著名になり、別のアート・ハウスで紹介され続けていた監督の新作が、先祖返りのように戻ってくる現象が生じる。『木靴の樹』のエルマンノ・オルミ、『プロビデンス』のレネ、『落葉』のオタール・イオセリアーニ、そもそも高野が1970年代から日本に紹介しようとしていながら時宜を得なかったマノエル・ド・オリヴェイラ、今年2022年には『アギーレ・神の怒り』のヴェルナー・ヘルツォークの新作も岩波ホールで公開される。あたかもシネコン時代に突入し、デジタルの波に押し戻されるかのように、有名監督の映画が同じ映画館に還ってくるのだ。これを岩波ホールの存在意義が高まってきたと言うのはたやすい。だが、ことはそう楽観的に進まなかった。過去にホール部の赤字を負担してきた岩波不動産現社長岩波力が「メセナの限界」と述べるのを責めることはできまい。
ストリーミング・サーヴィスが主流になった今日、アート・ハウス系に限らずシネコンも含め、どの映画館がいつ閉まっても不思議はない。東京に限っても2021年にアップリンク渋谷が閉館した。残る劇場もずいぶんと上映する作品が様変わりしたように思われる。一度閉館が決まった後、各方面からの嘆願で存続している TOHOシネマズシャンテはメジャー系合衆国作品チェーン公開の1館となった。Bunkamura ル・シネマも音楽・美術がらみのものと回顧上映を除くと同様である。シアター・イメージフォーラムは記録映画の興行に強く、ユーロスペースはチェーン公開と回顧上映、映画祭と日本映画新作が混ざって首が据わらない。ここに挙げた劇場を悪く言いたいのではない。ただ劇場の色が感じられなくなり、運営の基本となる批評精神が伝わりづらくなっていることは、損失だと言いたいだけだ。
岩波ホールには愚直なまでの方針があった。長期ロングランや再上映でその色が薄れかけることこそあったが、観客から長年にわたり、ある種の信頼を勝ち得てきたのだ。個人的には「何でこんな作品を?」と思うこともあったが、川喜多と高野がエキプ・ド・シネマの方針として打ち出した主義は守られてきたと言えるだろう。誤解を怖れずに書くなら、岩波ホールは映画好きにとって「甘えられる場所」だったのだ。映画批評が力を失った今日、「岩波ホールの新作だけは必ず見に行く」という声を複数の人から耳にしてきた。ときどき変なこともやるけれど、ここに来れば時を経て、デジタルの時代になっても変わらない映画の姿に触れられる。現在開催中のジョージア映画祭2022の諸作品を見ても、ここは安心できると同時に、未知なるものに触れられる大切な空間だったのだと深く感じる。
そんな他者と出会える窓のような映画館が閉じる。妄想と肥大した神経症的欲望が国際映画祭を始め全世界で映画的と賞賛されるいま、失われるものは大きい。気がつくと伝説のATG洋画公開期間は13年、岩波ホールはその3倍以上続いていた。61年にわたる芸術映画紹介の歴史が終わろうとしている。心から感謝を捧げると同時に、現スタッフの皆様が今後健やかに、新たな場所で活躍されることを願ってやまない。
参考文献
川喜多かしこ『映画ひとすじに』、講談社、1973年。
佐藤忠男監修『ATG映画の全貌[外国映画篇]』、夏書房、1980年。
多賀祥介『ATG編集後記 回想の映画人たち』、平凡社、1995年。
高野悦子『岩波ホールと<映画の仲間>』、岩波書店、2013年。
高野悦子編『エキプ・ド・シネマの三十年』、講談社、2004年。
渡部実「映画作家としてのルキーノ・ヴィスコンティII 第一部 ジャン・ルノワールの芸術 語り手・高野悦子」、『ヴィスコンティ研究』第2号、1979年、151-165頁。
(2022年2月7日記。2022年2月8日更新。)
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