Office NESHA presents movie guide
Jan/Feb. 1998
ナヌムの家II(1997,韓国)
★★★★
『ナヌムの家II』。すべての人に見てほしい。
韓国の旧日本軍従軍慰安婦問題を扱った映画を、見る義務があるわけではない。そんなもの、テレビのドキュメンタリーでいくらでも見られる。朝鮮人の視点に立て、と言うのでもない。被害者の視点がいつも正しいとは限らない。
堅苦しい書き出しに なってしまったが、この記録映画は、とても暖かい。やわらかい。
女性監督ビョ ン・ヨンジュは、旧従軍慰安婦であることをカミング・アウトした、おばあさんたちが集まって暮らす、「ナヌムの家」で、彼女たちの"生"に並走する。
大上段に振りかぶった前作『ナヌムの家』と異なり、監督は「映画の作り手」という特権を放棄して、スタッフともども映像に登場することをいとわない。その結果、既成の記録映画が迫れなかった、人間のなまの生き様が作品に結実した。
畑で青菜やカボチャを育てるおばあさんたち。子供を産めなかった彼女たちが、農作物を慈しむ姿は、涙がこぼれるほど美しい。ささいなことで、言い争いとも戯れともしれぬ会話を交わすおばあさんたち。人間のコミュニケイションの根源が、ここにある。
71分という短い時間に 、かけがえのない"生"の瞬間が、刻印されている。慰安婦として踏み躙られ、戦後は韓国で「一族の恥」と指弾され続け、年老いた女性たちが、生きる歓びを教えてくれる。
だからラストに訪れる、痛みに等しい悲しみと、監督の怒りが、かつてないインパクトで、見る者を襲う。
「生きろ!」という言葉は、『もののけ姫』よりも『ナヌムの家II』にこそふさわしい。
ぜひ、見てほしい。ともに生きるために……
[集英社『週刊プレイボーイ』No.8, 1998年2月24日号]
アミスタッド(1997,アメリカ)
★★★1/2
『E.T.』以降のスピルバーグをめぐる偏見には、怒りを禁じ得ないものがある。
確かに80年代に乱造さ れた彼のプロデュース作品や『インディ・ジョーンズ』『ジュラシック・パーク』シリーズは、ほとんどがダメだ。『フック』の惨めな失敗も、否定する気はない。
しかし傑作『太陽の帝国』『オールウェイズ』が受けた黙殺は、明らかに不当だ。まして映画を作ることの痛みを映像に結実し、ドキュメンタリーを越えるフィクションの地平を拓いた『シンドラーのリスト』は、歴史に永遠に刻み込まれなければならない。
スピルバーグは既に、 現代映画界、最大の巨匠である。目下『アラビアのロレンス』のデビッド・リーン監督を継承する、唯一の巨匠なのだ。
最新作『アミスタ ッド』は奴隷解放以前の合衆国で起きた、奴隷交易をめぐる各国の、合衆国内各勢力の争いを描く、2時間半を越える大作だ。
題材は皮肉なことに、官僚の腐敗が批判の的となっている今の日本に、タイムリーである。だがここでスピルバーグがとった作劇術は、実に的確なものだ。
奴隷船で反乱を起こしたアフロ・アメリカン(首謀者を演じるジャイモン・ヘンスゥが素晴らしい)は、一切英語を理解しない。売名目当てで法廷で彼らの弁護を買って出る受ける若者(『評決のとき』のマシュー・マコノヒー)と、一貫して通訳を通して対話させている。
ここに『激突!』以来のスピルバーグのテーマ、「見知らぬ他者をいかにして受け入れるか」が、がっちり描かれる。しかも現代の観客を意識し、あくまでわかりやすく、娯楽映画として飽きさせず、テーマから見る者の注意をそらせない手腕は、見事だ。
"感動巨編"という宣伝が浮ついて見える、力強い傑作。これを黙殺する批評家・観客は、映画の裏切り者だ。
[集英社『週刊プレイボーイ』No.10, 1999年3月3日号]
アートフル・ドヂャーズ(1997,日本)
★★
日本映画でも35ミリできっちり撮れば、作品の力に格段の差が出ることを、『アートフル・ドヂャーズ』で確認できるとご報告しよう。
全編ニューヨークを舞台に展開する、「日本でどうにもならなかったヤツは、外国に行ってもどうにもならない」というテーゼが痛快だ。肌触りは初期ジャームッシュや中期( ?)カウリスマキを思わせる。後半、話が弱くなるが、ラスト5分ががあまりにウマイので、星半分、オマケである。
[報雅堂『Composite』1998年1月25日-3月25日合併号、一 部訂正]
チャイニーズ・ボックス(1997,米-日)
★★★
「香港は返還後も自由だと思うかい?」「何が自由なの?」―『チャイニーズ・ボックス』のメイン・テーマは、この対話に集約される。
作家ポール・オースターは80年代の知的・社会的限界状況を『鍵のかかった部屋』で突き詰めたのちに、『スモーク』の慰めに至った。また、ウェイン・ワン監督は『スモーク』を経て、90年代のタフな現状に、『チャイニーズ・ボックス』で真正面から取り組む。
キー・ワードは"異邦人"感覚。ワン監督は香港生まれで合衆国で活動を続けているのに、この映画でジェレミー・アイアンズ扮する、イギリス人ジャーナリストに自己を投影させた。そこに絡む、大陸から出稼ぎでやってきた女(コン・リー)、出自のはっきりしない、嘘つきの物売り女(マギー・チャン)……
故郷香港のアイデンティティを追求し、ワン監督は「香港もニューヨークも同じだ」という結論に辿り着く。世界を動かす原理は経済だ。金銭と、前世紀以前から続く因習と階級格差、それに基づく偏見――これらがすべての住民を支配し、弱者を踏み躙る。
誰もその支配から逃れ ることはできない。個人の感情すらも。恋愛ひとつとっても、それが純粋な思いなのか、損得勘定の計算の結果か、自分自身にもわからない。開けても開けても中に別の箱が現われる、からくり箱(チャイニーズ・ボックス)のように。
この映画のラストは、「20世紀的自由」と「故郷・母国」、そして「本当の自分」という、三つの幻想の死だ。まともな人間にとって、安住の地は、どこにもない。
その場しのぎの慰めを拒み、現実を敢然と見据えた、現代人必見の作品。これにグランプリを与えなかった、ヴェネツィア映画祭は、歴史に拭いがたい汚点を残した。
[集英社『週刊プレイボーイ』No.7, 1998年2月17日号]
カルラの歌(1996,英-仏)
★1/2
ケン・ローチ監督の社会派ヒューマニズムが、大嫌いだ。『レイニング・ストーンズ』の「社会的弱者は犯罪をおかしても許される」というオチは不愉快だった。『大地と自由』で、フランコ派兵士を一切描かず、共和制派を無批判に肯定し、スペイン内戦を現代イギリスの雇用問題と絡めた、時代錯誤の左翼的傲慢さには、憤りすら覚えた。
そのローチが、南米ニカラグア内戦を撮る、と聞き、眉に唾してスクリーンに向かったのだが、この『カルラの歌』は、欺瞞性を感じさせない佳作に仕上がっている。
イギリス地方都市で、白人のバス運転手(またロバート・カーライル…)が、ニカラグアからの政治難民と恋に落ちる。この前半のドラマは、冗漫だ。しかし、現地ロケを敢行した後半部分で、作品が光を放ちはじめる。
この映画の意義は、「恋人のために…」とか言って、ノコノコ内戦の南米に出向いた主人公が、「北側先進国」との生活ギャップに唖然とし、尻尾を巻いて逃げ帰ってくるところにある。
彼が情けない男なのではない。本物の内戦は、テレビのニュースで見るよりも、はるかに苛酷で、伊達や粋狂で部外者がくちばしを突っ込んで良い代物ではない。
監督の悪いクセで、途中で、ニカラグア軍政と合衆国政府の癒着が告発される。しかし物語がフィクションだからか、説得力はない。
それよりも、「先進国」の甘っちょろい「ヒューマニズム」や「愛」が、南のタフな現実に敗北してゆく過程を、体験できる点が、貴重なのだ。
その時初めて、褐色の膚と黒い瞳をもつ、カルラの美しさの意味がわかるはずだ。南米旅行計画者、必見の一篇。どうぞご覚悟を。
[集英社『週刊プレイボーイ』No.6, 1998年2月10日号]
ブレーキ・ダウン(1997,アメリカ)
★★★★
89年、スピルバーグ印のアンブリン製作、お子さまSFX全盛期に『ダイ・ハード』が公開されたとき、そのオモシロさに誰も溜飲を下げた。
ただこれが、80年代を 代表するアメリカ・アクション映画になると予想した人は少なかっただろう。当時のトレンドとはあまりにもかけ離れた作りだったから。
トレンドは去り、オモシロいものが生き残る。それが娯楽の鉄則である。『ブレーキ・ダウン』の登場は、その事実を証明してくれるはずだ。
大スターは出ていない。派手なSFXもない。サイコ犯も登場しない。だがこの映画は本物の力に満ち溢れている。
主演はカート・ラッセル。今回はオハコのキレてる系ではなく、フツーのヤッピーの役で登場。転職のためにワイフ同伴で荒野のハイウェイを高級車でブッとばす。
彼が大型トラックに理由もなく追いかけられる――スピルバーグの『激突!』のパクリかと思いきや、運転手はすぐ顔を見せてしまう。
この「いかにもB級アクション」的設定に高をくくっていると、まんまと作り手の術策に落ちてゆくことになる。
物語は意外性の連続。 『スピード』の疾走感とセガール映画の武闘派アクション、『ファーゴ』の不気味さが渾然となって、シネマ・スコープの大スクリーンに渦を巻く。
93分という上映時 間は短いが、ストーリーの伏線に無駄や反則術がなく、贅肉を削ぎ落とした筋肉のように力強い。
全編手に汗握り息つく間もなく、終わったとき「ああ、オモシロかったぁ!!」と劇場を後にできることを保証する。映画を見る真の歓びとカタルシスが待っている。
これは90年代の『ダイ・ハード』とも言うべき、最高のアクション映画である。
[集英社『週刊プレイボーイ』No.5, 1998年2月3日号]
この森で天使はバスを降りた(1997, アメリカ)
★★★
「もういいよ……」いいかげん、そう言いたくないか?
去年はロクでもない年だった。今年が世界的にもっとひどい年になることも、間違いない。だからといって異常心理ドラマや、犯罪を正当化するような似非社会批判ばかり見せられるのは、うんざりだ。
こうなることは、ずっと前からわかっていたんだ。いま必要なのは「じゃあ、これからどうすれば良いか」と問うことじゃないのか?
この言葉にうなずいてくれた人に『この森で天使はバスを降りた』を薦める。
金はあまりかかっていない。でもファースト・シーンからびっくりする。だから細かいストーリーは説明しない。アメリカの田舎の村に、少女が紹介状を手に、仕事を捜しにくることから始まるドラマだ。それだけ言っておこう。
この村に50年代から今にいたるアメリカの陰の歴史が凝縮される。しかし陰惨な話ではない。誰もが堪えられない傷を抱えて、普通に生きている。生きてゆこうとしている。
立ち直って、傷を隠して、毎日をまっとうに生きようとする人々。その姿は美しい。
この世の中には「なぜ と問わないやさしさ」というのもあるのだ。それが胸に沁みる。
何かのはずみで、そのやさしさにズレが生じたとき、痛ましい事件が起こる。クライマックスは、少しあざとく感じるが、ラストの大どんでん返しで唖然とし納得、涙が止まらなくなる。
『黄昏』のキャサリン・ヘプバーンを彷彿とさせる、エレン・バーンスティンの名演。新人アリソン・エリオットの軽やかさと翳りを兼ね備えた存在感。演出・脚本の見事な手腕。すべてが魅力的だ。
98年の幕開けを飾るにふさわしい秀作。見逃すな。
[集英社『週刊プレイボーイ』No.4, 1998年1月27日号]
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