Office NESHA presents movie guide Jan./Feb. 1999

目次
(この色の作品は★★★★以上獲得作品です)
レイティングは★★★★★が最高点。
詳細はこちらをご覧下さい。

スネーク・アイズ(ニコラス・ケイジ主演)
コメディ・フランセーズ 演じられた愛
女と女と井戸の中
至上の恋
メリーに首ったけ
ニノの空
まひるのほし
レ・ミゼラブル(リーアム・ニースン主演)

スネーク・アイズ(1998,アメリカ)[ニコラス・ケイジ主演]

  ブライアン・デ・パルマと言えば、70年代『悪魔のシスター』『愛のメモリー』など、ストーリーめちゃくちゃのホラーやサイコ・スリラーばかり作る、B級監督だった。

 『ファントム・オブ・パラダイス』『キャリー』と、"異形の悲しみ"の物語を撮っても、描き方は差別的。根は血がドバドバ、スケベ丸出しの映像に、芝居がかった音楽と効果音の洪水に加え、往年の名作の臆面もないパクリや、安直なオチに終始する、「バカ」と呼ぶにふさわしい作品を連発していた。

  それが『アンタッチャブル』のおかげで、ハリウッド大作監督の仲間入り。『フューリー』や『殺しのドレス』に大爆笑した観客は、『ミッション・インポッシブル』の監督がデ・パルマと聞き、耳を疑ったものだ。

  しかし「雀百まで踊り忘れず」。こいつはやっぱりバカだった。最新作『スネーク・アイズ』は、全編無意味なスタイリズムで貫かれ、どうでもいいことに凝った技術を駆使した、大爆笑アクションである。

  真面目な人は見なくていい。冒頭13分間の長回しは、お父さんの運動会ビデオといい勝負の無内容。ラストでタルコフスキイの名作『サクリファイス』のカメラワークをパクった映像が出るに至り、スクリーンにトマトをぶつけたくなること、請け合いである。

  だが次々と登場する仰々しいコケおどしと、情けない顔で走りまわるニコラス・ケイジを見てると、抱腹絶倒間違いなし。坂本龍一のスカした音楽まで乗っかって、気分はすっかり「映画秘宝」。金と技術の無駄遣いが満喫できる。

  このクダラなさは大スクリーンとデジタル音響でないと体感できない。キミも劇場で、寅さんの口調でこう叫ぼう。「よう、デ・パルマ、相変わらずバカか!」

[集英社『週刊プレイボーイ』No.10,1999年3月2日号]

コメディー・フランセーズ 演じられた愛(1996, 仏-米)
★★★★

  3時間42分の記録映画。大丈夫。途中で5分間の休憩が入る。まるで演劇みたいだ。

  それもそのはず。『コメディ・フランセーズ―演じられた愛』は、フランスの国立劇場の3ヶ月を追う、ドキュメンタリーである。

  これがおもしろい。ラストに「え、もう終わり!?」とびっくりするぐらいおもしろい。演劇に関心がなくても、おフランスなノリが大キライでも、きっとおもしろい。

 この映画は演劇のドキュメントではなく、「コメディ・フランセーズ」という劇場そのものが主役の傑作なのだ。

  もちろん舞台稽古や本番上演の映像もある。それと、チケット売場でダダをこねるオバはんや、「劇団員の入れ歯に補助金を出すか」という会議、政府の補助金をもらうために、あまり儲けないようにしよう、という戦略などが、すべて同列に、あからさまに描き出される。

  単なるバック・ステージものではない。「劇場という場所は、ただ文化の担い手なのではなく、会社や学校と同じ組織である」というテーゼが、皮を一枚一枚はがしてゆくように見えてくる。その過程がスリリングだ。

  その上、劇場の特殊性として、世代のギャップ、老いの問題などが出てくるに至り、ふだん若いキミが考えもしない世界が、目の前に開けてくる。まるで「世の中」そのものをわしづかみにしたような迫力に襲われるのである。

  ナレーション、BGM一切なし。ただ「これを見ろ」とばかりにスクリーンから放たれる直球の連続。アメリカの記録映画監督、フレデリック・ワイズマンの力量、お見事。

  この映画を見ても、フランス演劇に関心は生まれないかもしれない。だが「世の中を生きる」意味は心の奥底に残り、前代未聞の感動が巻き起こる。絶対見逃すな。

[集英社『週刊プレイボーイ』No.9,1999年2月23日号]

女と女と井戸の中(1998,オーストラリア)
★1/2

  女性監督の作風は、大別すると「少女漫画系」と「女性週刊誌系」に割れる。前者は際限ない自己肯定の世界。代表はレディ・コミ流の『ピアノ・レッスン』と別マ風甘ったれ映画『萌の朱雀』だ。

  「女性週刊誌系」は底なしの残酷さが特徴。男の監督なら、少しは手加減するところも容赦なく、登場人物を追い詰め、救いのないラストを平然と用意する。

  オーストラリアの若手女性監督、サマンサ・ラングが放った『女と女と井戸の中』は後者に類する作品。女の残酷さは同性に向けられると、一層拍車がかかるとわかる。

 荒涼とした平原を歩く、パンクな若い女の子キャスリン。彼女を拾うのは、野中の一軒家で、親の世話をして生活する、独身の中年女性ヘスター。荒野の家の様子が、そこから変わり始める。

  ヘスターは失われた青春を取り戻そうとするように、キャスリンの世界を吸収し、に愛情を注ぐ。『ハーモニー』で注目を受けた名女優、ミランダ・オットーが、生気を回復してゆく中年女の変化、感情の機微を見事に演じている。

  そこに起こる"事件"―ふたりは「井戸」のなかに真相を封印する。秘密を共有することで、ヘスターとキャサリンの絆は、分かちがたいなったように見えたが…

  青い皮膜をまとったような映像は、不思議な魅力をたたえている。これが女の生理むき出しの物語の陰湿さを振り払う。独特のパワーで「そりゃないぜ」と言いたくなるラストまで、引き込んでゆく。

  口うるさい母親に悩んでる、コンパで必ず女に笑い者にされる、女子社員のイジメがツラい…そんな君にお薦め。問題解決の糸口がつかめる、かもしれない。女のエゴイズムが体感できる異色作だ。

[集英社『週刊プレイボーイ』No.8,1999年2月16日号]

至上の恋(1997,イギリス)
★★

  イギリスの時代物(本来これを「コスチューム・プレイ」と呼ぶ)映画は、どんなに見応えがあっても「舞台で見た方が、スゴそうだな」と感じてしまう。

  英国映画事情は、実は今もお寒い。昨年は年間製作本数が100本を越えながら、劇場公開されたのは、なんと3分の1。根が演劇とテレビの国だから、映画に冷たいのだ。時代物も人気舞台の映画化が多く、演劇の代用品の感が拭えない。

  19世紀王室の、プラトニック・ラブを描いた『至上の愛』は、時代物としては例外的に、映画らしい映画である。

  夫たる王を失い喪に服し、政務もなおざりに、城に閉じこもる女王ヴィクトリア。その心を開くべく雇い入れられた従僕ブラウン。ふたりは20年近くにわたり、心と心の触れ合いを保ちつつ、生きる歓びと責任を回復してゆく。

  チャールズとダイアナの一件が示すとおり、王室スキャンダル大好きのイギリス人。これも有名な19世紀の実話の映画化だ。本国ではテレビ放映された作品だが、脚本が嫌味なく、ことの真相をしっとりと描く。

  初老に差しかかった女王(007シリーズの二代目"M"、ジュディ・デンチ)が、かつての趣味、馬の遠乗りから始まり、少しずつ冷えた心を解かしてゆく過程。イングランドの緑と海を背景に、静かな心の動きが胸に染みる。

  そして女王の"浮気"を利用して権力奪取を謀る皇太子、保守党・労働党の議会闘争。日本人にはイマイチ、ピンと来ない、英国における王室の意味も見えてきて興味深い。

  恋愛とエゴイズムを混同しがちな輩が多い昨今。中年同士の、与え合う恋に触れてみるのも悪くない。デートにもって来いの一本。J・デンチおばさんの可愛さだけでも、一見の価値あり。

[集英社『週刊プレイボーイ』No.7,1999年2月9日号]

メリーに首ったけ(1998,アメリカ)

  とにかくキャメロン・ディアスである。今や「キャメロン」と言ったら、「ジェームズ」ではなく「ディアス」なのである。なんてことを昨年末の放談記事で言ってたら、キャメロンは合衆国で「一番キスしたい女優」ベスト・ワンに選ばれたのである。

  『普通じゃない』を見逃した不幸な諸君、まだ間に合うぞ、『メリーに首ったけ』を見なさい。すんごく複雑な気持ちになれるから。

  映画そのものは悪趣味極まりないコメディ。下ネタ連発、ギャグはダサイ、出てくる男はみんなバカ。これが老いも若きも一緒になって、「理想の女性」メリーを追っ掛ける、究極のストーキング・ムーヴィーである。

  個人的趣味で言わせてもらえば、着眼点から笑いのとり方、演出、オチの付け方まで、大嫌いなタイプのコメディ。それでも、この映画を勧めてしまうのは、下劣な作品世界のなかで、台風の目のように泰然として、唯一マトモなキャラクターを演じ切った、キャメロンのスゴさに言葉を失うからだ。

  180センチ近い長身に、モデル出身と納得するプロポーション、短いブロンド・ヘアに青い瞳。真ん丸に近い顔に、スッと通った鼻筋、そして(最近では珍しい!)上品な口元と、腕の線の美しさ…そう、キャメロンこそ、世紀末ハリウッドに登場した、「最後の映画スター」なのだ。

  美人でかわいくて、しっかりしてて、守ってあげたくなる、そんな矛盾した魅力を同時に表現できるのは、彼女が女優として卓抜した才能を持っている証拠。正統派で現代的な魅力にみんな「首ったけ」になること、請け合いだ。

  女どもは、レオやブラピで騒がせとけばよい。21世紀は、キャメロン・ディアスの時代だ!だから次は、もっと上品な映画に出てくれ…

[集英社『週刊プレイボーイ』No.6,1999年2月2日号]

ニノの空(1997,フランス)
★★1/2

  このところ旗色の悪いフランス映画。公開本数は激減、ベッソン印の悪趣味アクション以外、ヒットも話題作もなく、さびしい98年だった。

  同時に98年はワールド・カップのおかげで、日本人がフランスの地方都市に本格的に目を向けた、おそらく最初の年。「フランス=パリ」の構図が、やっと崩れてきた。

  現代日本文化というと、「ブレードランナー、シンジュク、アニメ」しか思いつかないという外国人は多い。同じ誤解を、俺たちもフランスに抱いてないか?

  去年公開の呪われた名作『マルセイユの恋』(同監督の最新作「心の代わりに」は圧倒的名作、近日日本公開予定!)のように、いま、地方都市を舞台にしたフランス映画が、一番活きがよくて、面白いのだ。

  『ニノの空』は、ワールド・カップで有名になったナントのさらに北、ブルターニュ西部を舞台にした、ロード・ムーヴィーである。

  主人公はスペイン系の平凡なセールスマンと、ロシア系(?)ユダヤ人。ひょんなことからこの凸凹コンビが、幸せを求める珍道中を展開する。

  設定や展開の一部は、往年の秀作『スケアクロウ』を思わせる。ちょっとトボケたユーモアが、全編にちりばめられ、飽きることがない。

  あまり映画で描かれたことのないケルトの大地、ブルターニュの海や小さな町の佇まいが、シネスコ画面いっぱいに拡がると、どうってことのない物語が、素晴らしく魅力的になってくる。映画を見ながら、深呼吸したくなってくる。こんな歓びは久しぶりだ。

  本邦初お目見えのマヌエル・ポワリエ監督の名を、一躍世界に知らしめた秀作。でかいばかりが映画じゃない。真の映画ファン、必見!

[集英社『週刊プレイボーイ』No.5,1999年1月26日号]

まひるのほし(1998,日本)
★★1/2

  何かがある。人間の根源的な何かが、この映画にはある。

  心身に障害を持った人々が、絵を描く。宮城まり子の『ねむの木の歌が聞こえる』など同じ題材の先例は多いが、『まひるのほし』は、それらとまったく趣を異にしている。

  音楽のヘルフゴッドや大江光、絵画の山下清のように、この種の人々の仕事は、「純粋な魂」とか「汚れなき心」を表現した、やさしい作品として日本では評価される。

  だがそもそも人間は、自分の欲望に忠実に生きようとする動物である。赤ん坊や幼児のわがままが示すごとく、「汚れなき心」なんて、ハナッから人間には、ないのだ。「純粋」なんて言葉は、「人間じゃない」ってのと同義ではないのか?

  記録映画『まひるのほし』には、絵画・陶芸・そしてプラカード(この衝撃は、見るまで秘する)などを、いわゆる「療法」のひとつとして製作する人々が登場する。

  抽象絵画最先端の画家のように、油絵具のしたたりに、全神経を集中する少女、コミュニケーションを求めて、メッセージを発し続ける若者、焼窯を扱いつつ「情けない…」と連呼する初老の男…

  この人々を見ていると、「創造」という行為に潜む、根源的な欲望と力を感じる。健常者かどうかという垣根など感じなくなる。

  ひとはなぜ、生きるのか、生きていたいのか? この最大の謎を解くために、人間は生きるのだろう。

  『まひるのほし』は、その謎に近づく、新しい視点と角度を提示している。監督が自分の主張や戦略を、一度放棄した上で到達した、不思議な世界が刻印されているのだ。

  混迷の世紀末、99年を始めるのに、ふさわしい作品として、強く推薦する。

[集英社『週刊プレイボーイ』No.4,1999年1月19日号]

レ・ミゼラブル(1998,アメリカ)[リーアム・ニーソン主演]
★★


  『レ・ミゼラブル』の映画化、といっても、ミュージカルではない。ロイド―ウェッバーの曲などまったく流れない、ユゴーの小説の映画化である。

  ミュージカルと勘違いして見に来る観客は、スクリーンを前に、唖然とするだろう。この映画、長大な原作のなかで、ジャン・バルジャンとジャヴェール警部の十年以上にわたる追跡劇に焦点を絞っている。青を基調としたクラアい映像のなか、男の情念がたぎるドラマなのだ。

  追われる側のバルジャンはリーアム・ニーソン。ジェラール・ドゥパルデューを意識した演技がハマり、『シンドラーのリスト』のイメージ払拭にやっと成功。しかし、圧巻は『シャイン』のジェフリー・ラッシュ演じる、ジャベール警部だ。

  そもそもジャベールがバルジャン逮捕に燃やす執念は、原作では階級社会の対立のネガ。いま原作通り描いても、説得力がない。そこをラッシュが「訳のわからない妄執の持ち主」として演じると、ヘタなサイコ・スリラーより怖い。往年のカルト・ムーヴィー『デュエリスト』を思わせる世界が展開される。

  また、当代きっての大根女優、ウマ・サーマンにまったく演技をさせてない。ボロを着せて殴る蹴るの乱暴を加え、挙げ句は病気で殺してしまう。この演出がかなりネチっこく、ほとんどSMである。

  唯一の息抜きが、クレア・デーンズのコゼットというのは、意外と原作に忠実だということか?

  実際、原作を読んでれば、解釈の面白みに感心する。他の人は、ひたすら"濃い"ヘンな世界を楽しめる。

 『ペレ』の監督、ビレ・アウグストは、時代の好みをしたたかに読み、作家性と娯楽を両立させているのだ。ハリウッド生き残り監督の力量を体験する価値はある。

[集英社『週刊プレイボーイ』No.3,1999年1月12日号]

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