Office NESHA presents movie guide
Oct./Nov. 1998
かさぶた/7本のキャンドル
巴里の女性
黒澤明 回顧上映
カンゾー先生
ハーフ・ア・チャンス
原色パリ図鑑
友情の翼
マルセイユの恋
かさぶた(1987,イラン)/7本のキャンドル(1994,イラン)
★★★
子供を主人公としたイラン映画、というと、『友だちのうちはどこ?』はじめ、詩情溢れるやさしくカワイイ作品の宝庫。だがもっとハードな映画を作り続ける監督もいる。
アボルファズル・ジャリリ、83年に長編デビュー以来、全作品が国内公開禁止になりながら、今も創作を続けている。
その世界的名声を受けるきっかけとなった87年の『かさぶた』と、ヴェネツィア映画祭で受賞した94年作品『7本のキャンドル』は、これまで日本で上映されてきたイラン映画とはかなり趣が違う。
少年院を舞台とした『かさぶた』(★★★)では、収監された子供たちの罪が、説明されない。主人公の少年すら、彼にかけられた容疑の是非を、映画は解きあかさない。ひたすら鉄格子を意識させる映像のなか、子供たちの、彼らを"管理"する大人の姿が映し出される。
「そんなクソまじめな、暗い映画見て、何が面白いんだ!」と思うキミに見てほしい。スクリーンを前にして、ハッと気づく瞬間があるはずだ。ぼくらも「監獄のなかの少年」なのと。
そのとき、イランと日本の国境が解き放たれる。不況で荒れる日本と、子供に労働を強いるイランは、同じ「貧しさ」を抱えているのだ。
だから『7本のキャンドル』(★★★)には、日本の登校拒否児のように、突然体が動かなくなった少女が登場する。都会で働く兄の少年は、父親と同じように無力だ。金を稼ぎ、払い、医者や祈祷師にすべてを委ねるしかない。その痛みの末に美しさが産まれ、静かに、確かな"なにか"を示す。
ふやけた『タイタニック』の年を終わりにするにふさわしい2本。必要なのは「ここから始める」勇気を持つことだ。愛や希望は、その彼方にしかない。直視せよ。
[集英社『週刊プレイボーイ』No.47,1998年11月24日号]
巴里の女性(1923, アメリカ)
★★★★★
映画の神様、チャーリーことチャールズ・チャップリン。その代表的長編で一本だけ、第二次大戦後、一度も日本で劇場再公開されていない作品がある!
『巴里の女性』。彼の初の長編にして、監督に徹した映画。公開当初は絶賛を受け、日本では第一回キネマ旬報ベスト・テン第一位に輝いた。
チャップリンは後年、代表作に自ら音楽を付け、サウンド版を作成したが、『巴里の女性』ともう一本の短篇(『サニイサイド』)だけ作業が難航し、70年代日本での劇場リバイバル・セットに含まれなかった。
この幻の名作が思わぬ形で甦る。「味覚の街、パリ」と銘打った特集上映で、2日間だけ劇場公開されるのだ。
この映画はコメディではない。だから逆に、チャップリン嫌いにも、CMのソックリさんしか知らないビギナーにも勧められる。
『巴里の女性』からチャップリンを知るのは、いまでは彼の天才を知る最善の道かもしれない。映画というメディアの可能性をギリギリまで追求した成果が、ここにある。
陳腐なラヴ・ストーリーを下敷きに描かれる、運命の皮肉、上流社会の虚栄の市、飽食生活のデカダンス、サイレント期のフィルムでしか出せない光と闇のコントラスト…『甘い生活』『柔らかい肌』等の作品が範とした世界だ。
すべてを包み込むように、冷酷に突き放しつつ、あたたかく抱き締める、チャップリンの真骨頂が刻印されている。
この映画は古代ギリシャ彫刻や、レオナルドの絵画に比する真の芸術品だ。ミロのビーナスやモナリザを前にして、面白いもつまらないもない。ただ美しさに胸を詰まらせ、溜め息をつけばよい。
映画第二世紀を迎えたいま、チャップリンに帰れ!北から南から、飛行機で電車で、上映に駆け付けろ!!
[集英社『週刊プレイボーイ』No.43,1998年10月27日号]
黒澤明 回顧上映
★★--★★★★1/2
黒澤明逝ってはやひと月。第11回東京国際映画祭で、監督作品全30本が上映される。 ここでは「何でそんなにエライんだ、あのジイさん?」という読者のために、「いま見る黒澤」を厳選、紹介する。
彼は思いの外、広汎なジャンルを手懸けているが、全作品を貫く特徴は「質朴・純粋・対決」の3つに絞れる。
代表作はやはり『七人の侍』(★★★★1/2)。野武士軍団の対決は、世界中の人々の血湧き肉躍らせた。一大ページェントである。
娯楽時代劇では緊迫した追跡ドラマ『隠し砦の三悪人』(★★★★1/2)、西部劇調野放図アクション『用心棒』(★★★★1/2)、続編『椿三十郎』(★★★★1/2)では軽いユーモアに 三船と仲代、一騎打ちの血しぶき…どれも退屈する暇などない。
サスペンス路線では『天国と地獄』(★★★★1/2)が見逃せない。マクベイン原作の誘拐物を、前半の天国と後半の地獄の対比で描き分け、畳み込むように見せる。山崎努がスゴイ。他に警官が奪われた銃を探し求める『野良犬』(★★★1/2)など、テーマの先見の明に、改めて驚く。
黒澤は人間の純朴な良心を信じた。デビュー作『姿三四郎』(★★★★1/2)のシンプルな美しさと力強さに、その信条は明らかだ。
この路線の最高は『赤ひげ』(★★★★1/2)。江戸時代の市井医者の話が、シネスコ画面いっぱいに、スケール大きく、普通の人のドラマを描かれ、圧巻だ。
唯一外国で撮った『デルス・ウザーラ』(★★★★1/2)は旧ソ連映画。スクリーンで見られるのは、最後の機会かもしれない。シベリアの大地の凍てつく嵐のなか、自然の一部として生きるデルスの姿が心に焼き付く。
晩年の頂点は、役者が弱い『乱』(★★★)より、『影武者』(日本国内版★★★★、海外版★★★★1/2)だ。戦国の動乱に、世の無常まで感じさせる。この映画は『プライベート・ライアン』に多大な影響を与えている。
多くのファンが代表作に挙げる『酔いどれ天使』(★★)や『羅生門』(★★★)『蜘蛛巣城』(★★)『生きる』(レイティング保留)は、人により好悪が分かれる。
それより無冠の名作2本を。エノケンこと榎本健一と唯一組んだ、コメディ版勧進帳『虎の尾を踏む男たち』(★★★★1/2)は是非。最後にドストエフスキイの原作を越える感動を呼び起こす名作『白痴』(★★★★1/2)。黒澤の最大の欠点「大人の女が描けない」が原作物では克服され、原節子と久我美子が怖いくらい、美しい。
さあ、これが本当の「百聞は一見にしかず」。売り切れ前に、チケットを入手せよ。
[集英社『週刊プレイボーイ』No.43,1998年10月27日号]
カンゾー先生(1998,日本)
★★★1/2
開巻早々、瀬戸内の海辺を白い背広姿の柄本明が走る、走る、走る。それを見ただけで鳥肌が立つ。「おおっ、これが映画だっ!」
『カンゾー先生』は、大スクリーンで見たい。大がかりなアクションもSFXもない。でも、映画が汗を飛び散らせながら疾走するがごとき興奮は、小さな画面には窮屈だ。
坂口安吾の小説群が原作だが、暗い情念などほとんど無縁。太平洋戦争終結直前の、瀬戸内の村を舞台に、人間の生きるエネルギーが、正も負も共に渦を巻く世界である。
ギリギリの状況の中で、欲望を剥き出しにしながら、酒や女や、金や名誉に躍り続ける村人たち。そのなかひとり、愚直なまでに市井の町医者を自認する「カンゾー先生」こと柄本明も、歪んでゆく。
だがそこは今村昌平。社会批判などというケチな料簡を超え、人間のナマの姿を、肯定も否定もせず追い続ける。その描写たるや、最盛期の『にっぽん昆虫記』の力強さと、『黒い雨』の繊細さを兼ね備え、2時間9分、ユーモラスな緊張が途切れる暇なし。
監督の意気に応えるように、柄本を始めとする俳優陣も、近年の日本映画にはない、存在感を発揮する。
モルヒネ中毒の外科医、世良公則のギラつく眼つき。アル中の生臭坊主、唐十郎の飄々とした味。女郎屋のオカミ、松阪慶子の艶気。伊武雅刀の堅物スケベ軍人。そして麻生久美子が発する、とても今の若い子とは思えない、ハングリーな光(ラストはエイハブ船長!)。こんな人間たちに会いたいから、わざわざスクリーンに出掛けるんだ。
蛇足だが「8月6日」が何の日か、だけは、確かめてから劇場に行こう。文句なし、今年の邦画、ベスト・ワン。俺も金出して、でかいスクリーンで見直すぞ!
[集英社『週刊プレイボーイ』No.42,1998年10月20日号]
ハーフ・ア・チャンス(1998,フランス)
★★1/2
25年ほど前、日本で「美男子俳優」といえば、アラン・ドロンのことだった。ラブ・ストーリーとフィルム・ノワール系ギャング物の双方をこなし、「ドロンの新作」のインパクトたるや、昨今のプラピやレオの比ではなかった。
だが当時、本国フランスのトップ・スターは、ドロンではなく、ジャン―ポール・ベルモンド。カンフー抜きのジャッキー・チェン、といった感じの、体当たりアクションを売り物に、コメディ・タッチの娯楽作を連発していた。
時は流れて98年、両スターがベッソン印一色のフレンチ・アクションに殴り込みをかけるのが、『ハーフ・ア・チャンス』だ。
ベルモンドが白髪頭で、クラシック・カー・マニアの自動車販売員で登場すると、ドロンの役どころは南仏リゾート地の、高級レストラン付きのプチ・ホテル支配人。実生活まで含めて、ふたりの実人生を反映させた設定がニクイ。
そこに飛び込んでくるのが、自動車泥棒の常習犯、ヴァネッサ・パラディ。小生意気な若い娘に、ふたり揃ってヤニ下がってると、「あなたたちのどっちかが、あたしのパパなのよ」と言われビックリ。
ところが盗んだ車がもとで、ヴァネッサはロシアン・マフィアに命を狙われる身に。「二分の一の確率」の我が娘を救うべく、二大スターは「隠れた過去」の能力を駆使し、マフィア撃退に立ち上がる!
後は往年のフレンチ・アクションの十八番、ご都合主義と意味ない大爆発やアクション満載で、頭の中を空っぽにして楽しめる展開。
家族の絆なんてヤボなこと、言いっこなしの締め括りも、監督ルコントのセンスが光り、フランスらしい洗練ぶり。往年のファンから子供まで、息抜きに最適の快作だ。
[集英社『週刊プレイボーイ』No.42,1998年10月20日号]
原色パリ図鑑(1997,フランス)
★★1/2
『原色パリ図鑑』とは、恐れ入った邦題をつけたものだ。題名のとおり、原色を思わせる、クドいコテコテ世界、オン・パレードのコメディではあるが…
原題を「俺が嘘ついてたら、真実は?」というこの映画、パリ在住のユダヤ人コミュニティを「図鑑」よろしく見せてくれる。
ところで"ユダヤ人"の定義って、知ってるか? ナチのアホの講釈は論外として、元来「ユダヤ教信者であること」以外、他には規定がないのである。「信者」である印のひとつが、ダビデの星。
だからこんな話も起こる…家賃滞納で食い詰めた失業者が、たまたまダビデの星を拾い、騒ぎに巻き込まれたところを助けられる。仲裁に入ったのは、ユダヤ人界のボス、布地工場の社長だった。
同族のよしみで仕事をもらい、いいことづくめなのだが、彼は「ユダヤ人」ではない。事あるごとに、正体がバレないか気が気でない。
というのもユダヤ人は、イタリア人も真っ青の、"ファミリー"第一主義。しかも宗教儀式や戒律がやたらと細かい。部外者から見れば、見当もつかないようなところに、重要な「しきたり」が潜んでいるから、そのなかを泳ぎ切るのは、地雷原を横断するような、ヒヤヒヤものである。
そんなひとつひとつのディテールを細かく描き込み、スリルと笑い満載のコメディーが、『原色パリ図鑑』なのだ。
ナチの大量虐殺から50年以上経ったいまも、何かと「ユダヤの陰謀」にされてしまう、彼らは気の毒だ。そんな彼らの生態を笑い飛ばしながら蔑視せず、「人種の壁」を越えたハッピー・エンドに持ち込むワザは、大したもんだ。
愛すべきユダヤ人の仲間と出会える、痛快な一篇!
[集英社『週刊プレイボーイ』No.41,1998年10月13日号]
友情の翼(1996,英-米)
★★
ジェイムズ・ディーンが端役出演した『底抜け艦隊』から、高島礼子の全裸が拝める『さまよえる脳髄』まで、後からマニアが騒ぐ、カルト・ムーヴィーは意外なところにある。
『友情の翼』----第二次大戦中、アイルランドは中立を保つため、連合国兵士とドイツ兵を、ひとつの収容所に入れた。そこで繰り広げられる対立と友情の物語。地味だがなかなか楽しめる、シブイ映画。
だが小品と侮るなかれ。これは、ある種のファンが泣いて喜ぶ、「隠し球」満載の曲者である。
注目は全編半ば、酒場のシーン。ヒロインが突如、物凄いダンスを披露して唖然。彼女、ジーン・バトラーは90年代欧米最大のヒット・ミュージカル(というかショー)、『リヴァーダンス』の主役ダンサーなのだ。続いて登場のタップ・ダンサー4人も『リヴァーダンス』のメンバー。
アイリッシュ・トラッド音楽にタップ・ダンス、フラメンコにバレーを融合させたステージは、ガデスのフラメンコ・バレー以来の衝撃を世界に与えた。その舞台の片鱗に息を呑み、圧倒される。
この場面の音楽を監修したのが、アイリッシュ・トラッド、クロスオーヴァー派の雄、ドーナル・ラニー。映画でも注目のアコーディオニスト、シャロン・シャノンに中堅フィデラー、ナリグ・ケイシーと出演しプレイする。舞台でも実現していない「夢の共演」に、音楽ファンは狂喜だ。
また西部劇ファンは、この酒場でお約束の乱闘が起こるのにニンマリ。真面目なアイルランド愛好家には、イギリス人とアイリッシュ、そしてカナダやアメリカに移民したアイリッシュの、カルチャー・ギャップが興味深い。
数年後必死でビデオを探す奴らに、「俺、封切で見たぜ」と自慢できる。見て損なし!
[集英社『週刊プレイボーイ』No.40,1998年10月6日号]
マルセイユの恋(1997,フランス)
★★★★
『マルセイユの恋』(原題「マリウスとジャネット」)。いつかどこかで見たような、だけどいまだかつてなかった、やさしさの名作。
人の日常というものは、ドラマチックな出来事で溢れているわけではない。でもみんな幸せを求めているのは一緒。
幸せってなんだろう。ほんのちょっとした、思いやりの積み重ねなんじゃないか?
落ち込んでいる人をそっと見守ること。心に傷を持っている人に「何があったの?」と尋ねず、黙って待つこと。悩んでいる人に「コーヒー、飲む?」と、そっと声をかけること。「もう自分のことなんか、誰も顧みてなんかくれないんだ…」と絶望している人に、「私が、ぼくが、ここにいるよ」と、さりげなく伝えること。
だけど相手が罪を犯したときには、はっきりと批判すること。自分が悪いとわかったら、素直に謝る勇気をもつこと。謝罪を受け入れる心のゆとりを持つこと。そして苛酷な現実のなか、投げ遣りにならず、希望を失わないこと。
どれもこれも、当たり前のことばかりなのに、日々の生活で実行してゆくのは難しい。だからそんな「思いやり」に満ちた『マルセイユの恋』の副題に、監督は「お伽話」と銘打った。
フランスでも不況が特に深刻な、南仏マルセイユで、ふたりの子連れの中年独身女に訪れる、移民二世との恋。それを見守り、時には応援し、時には叱りとばし、抱き合う隣人たち。そこに射し続ける、不況と無縁の暖かな陽光…
スターも出ていないし、何ということのない物語なのに、登場人物と共に泣き、笑い、ラストの「オー、ソーレ・ミオ」に微笑みがこぼれる。
騙されたと思って見てほしい。今一番求められているものが、この映画にはあふれている。それは、手の届く幸せ。
[集英社『週刊プレイボーイ』No.39,1998年9月29日号]
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