Office NESHA presents movie guide
Oct./ Dec. 2003

目次
(この色の作品は★★★★以上獲得作品です)
レイティングは★★★★★が最高点。
詳細はこちらをご覧下さい

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飛ぶ教室
女はみんな生きている
ガーデン
サロメ[アイーダ・ゴメス主演]
復活[タヴィアーニ兄弟監督]
ティアーズ・オブ・ザ・サン
ポロック 二人だけのアトリエ
死ぬまでにしたい10のこと
聖なる映画作家,カール・ドライヤー
月曜日に乾杯!
アララトの聖母



飛ぶ教室(2002,ドイツ)
★★★

 『点子ちゃんアントン』で、ケストナー作品を現代に蘇生させることに成功したスタッフが、今度は少年たちの物語『飛ぶ教室』に挑戦した。
  ギムナジウム(寄宿学校)という原作の設定を生かすため、舞台を原作のキルヒベルクからライプツィヒの聖トーマス教会合唱団付属学校に変更。美少年ファン、合唱団ファン垂涎のドラマになっている。
  原作では書取帳を盗まれることから始まるゼバスチャン救出作戦は、テレビ収録直前に、バッハの「マタイ受難曲」の楽譜を盗まれる設定に置き換えられ、スリル満点のわんぱく戦争として展開。食いしん坊マッテと乱暴者ヴァヴァルカのサシのケンカの場面もハリウッド映画的欺瞞はなし。血が出るまでの真剣勝負だ。前半のクライマックスとなる雪合戦まで、「子供はこうあるべき」という大人の理想を押しつけない、のびのび明るい楽しさに溢れている。
  合唱団の指揮をする(かつて大バッハが勤めた「トマス・カントル」の役職)のが「正義」先生。生徒の個性を尊重しつつ、きちんと指導するキャラクターが魅力的。病気のお母さんを見舞うために規則を破って外出を続ける、原作者自身の体験に基づいたエピソードも胸にジンとくる。
  そしてクリスマス劇「飛ぶ教室」は、現代にふさわしく飛行機がロケットに変更され、小説にはない裏話が仕掛けられ、困難を乗り越えて、ラストで上演。教室が本当に「飛ぶ」映像は、涙ものである。
  ケストナーの「子どもの涙はけっしておとなの涙より小さいものではなく、おとなの涙より重いことだってめずらしくありません」「私はただ、つらい時でも、正直でなければならないというのです。骨のずいまで正直で」(以上、高橋健二訳)というメッセージは、「正義」先生と「禁煙」先生のエピソードを膨らませることで、きちんと発信されている。親に会えないことや、苦しみを誰にも話せない子供の苦しみの描写が後退しているのは残念だが、21世紀の子供に生きる希望を与えようとする、作り手の姿勢はあっぱれだ。大人が見ても、この冬一番あったかい気持ちになれる映画である。

(11月23日より東京 恵比寿ガーデンシネマ他にてロードショー)
[メディアファクトリー『ダ・ヴィンチ』 2003年12月号より]


女はみんな生きている(2001,フランス)
★★

  深夜フランスのとある街中で起きたひき逃げ事件。加害者側は夫や息子にバカにされる平凡な中年主婦。被害者は大富豪の財産をだまし取って逃走中のアルジェリア人娼婦。二人には奇妙な友情が芽生え、共同戦線を張り、スケベでエエカッコシイで欲張りな男たちに、宣戦布告を突きつける。
  監督は『赤ちゃんに乾杯!』『女と男の危機』と、社会問題を盛ったコメディが得意なコリーヌ・セロー。今回はデジタル・ビデオを駆使し、逆転劇をテンポ良く爆笑のうちに見せる。娼婦役のラシダ・ブラクニは、映画の前半では昏睡状態で寝たきりだが、目覚めてからは一転。画面狭しと駆けめぐるのが痛快で魅力的。上出来のフレンチ・エンタテインメントだ。

(11月15日より東京・シネスイッチ銀座他にてロードショー)
[角川書店『東京ウォーカー』 2003年11月18日号]

ガーデン(1995,スロヴァキア―仏)
★★★

  マルティン・シュリーク。ヨーロッパの小国スロバキアで90年代に長編デビューした、日本では知名度ゼロに近い監督。だが特に大きな映画祭で賞を獲ってもいないのに、海外から資本援助も取り付けつつ、コンスタントに新作を撮り作り続けている。
  こういう持続力があるクリエイターには、知名度だけでは測れない、強い個性があるものだ。その彼の代表作とされる映画が『ガーデン』だ。
 30才のヤクプは学校の教師。子持ちの人妻とずるずる不倫関係を続け、同居している父親からは「いいかげんに自立しろ!」とガミガミ言われる…ほとんど村上春樹の小説の主人公である。
  そんな現実から逃避するように、夏の終わりにヤコブは、亡くなった祖父の農家にやってくる。そこでは謎の文字で書かれたノートを発見したり、イカサマ師のような旅人に車を奪われたり、隣家のおかしな少女に絡まれたり、些細だが妙な出来事ばかり起こる。
  全編は章立てで分割され、各章の冒頭で、あらすじをナレーションで説明してしまう。ネタを先に割った上で映画を見せる、大胆不敵な手法に恐れ入るが、この映画には、物語を越える面白さがある。
  夏から秋、そして初冬へと移ってゆく風景も、映画を知っている監督にしか撮れない美に溢れている。そんな田園風景のなか、ちょっとシュールでとぼけた出来事が連発。ついつい笑いを誘われる。登場人物が真剣に行動するほど、見ているこちらは、おかしくてたまらなくなる。
  なのに徐々に哀しい気持ちがこみ上げてくる。登場人物たちは、みんな時代からズレている。”時代遅れ”なのではなく、一所懸命に生きてきたのに、気が付いたら、時においてきぼりを食ってしまい、呆然と立ちつくしている…そんな微妙な寂しさが、胸に迫ってくるのだ。そして映画のラストに待っている、ささやかな和解の瞬間では、温かい共感と感動まで覚えてしまう。
  すっとぼけた笑いの裏に、筋が一本通った傑作。映画ファンを任じるなら、シュリークをマークせよ。カウリスマキ以来の、埋もれた逸材かもしれない。

(11月15日より東京・有楽町 銀座シネ・ラ・セットにてロードショー)
[集英社『週刊プレイボーイ』 2003年 No.48 11月25日号]


サロメ[アイーダ・ゴメス主演](2000,スペイン)
★★

  スペインの民族舞踊と言えばフラメンコ。日本でもダンサー人口も多く、熱烈な愛好家を誇る。一方アントニア・ガデスをはじめ、フラメンコをバレエの域に高めたパフォーマンスは、世界的に絶賛を博している。
  現代スペイン・バレエ界のプリマ、アイーダ・ゴメスは、ガデスやホアキン・コルテスのパートナー、スペイン国立バレエ団芸術監督を務め、自ら率いるバレー団を設立。演目として選んだのは「サロメ」の創作バレエ化だ。アイーダはその演出をカルロス・サウラに依頼した。
 「カルメン」「フラメンコ」などのスペイン・バレエ映画で知られた映画監督でもある彼は、舞台版を完成する過程で、映画版を別個に製作することを提案。その成果がこの秋公開となる「サロメ」となった。
  映画は大きく二部構成をとり、前半にはサウラの分身的映画監督が登場。ドキュメンタリー・タッチで、音楽や装置、衣装や振り付けが決まってゆく様子を追う。合間にアイーダはじめバレリーナたちへのインタヴューが織り込まれる。少女時代に怪我をして、踊りを断念しようとした裏話も語られ、興味深い。
  そして後半では完成したバレエ「サロメ」を、ラストまで切れ目なしで一気に楽しめる。フラメンコ的リズムに、靴を履いたままで踏まれるステップが、原初的情熱を十全に表現。そこにバレエのやわらかさを併せ持った、独自のバレエ・パフォーマンスは強烈で悲劇的だ。
  一つのバレエ作品が誕生する瞬間に立ち会う、贅沢な幸福が体験できる佳編。来年来日公演予定の舞台版「サロメ」予習にも最適である。

(11月8日より東京・渋谷 Bunkamuraル・シネマにてロードショー)
[メディアファクトリー『ダ・ヴィンチ』 2003年12月号を一部修正]


復活[タヴィアーニ兄弟監督](2001,伊―仏―独)
★★

  舞台は19世紀末。貴族の大学生、ネフリュードフは叔母の家で美しい少女、カチューシャと出会う。しかし3年後、二人が結ばれた翌朝、ネフリュードフはカチューシャに金を握らせ立ち去ってしまう。数年の歳月を経て、二人は法廷で、被告人の娼婦と陪審員として再会する。自責の念からネフリュードフは、すべてを擲ってカチューシャを救おうとするが…
 「サン・ロレンツォの夜」の鬼才監督タヴィアーニ兄弟が、革命前のロシア社会の腐敗を暴いたトルストイの長編小説を映画化。サンクト・ペテルスブルクからシベリアまで、現地ロケを敢行し、イタリア人スタッフだから表現できるさわやかに美しいメロドラマに仕上げた。その裏に21世紀の今も続く不平等と無関心への告発が込められているあたりに、監督の気骨が感じられる。

(11月8日より東京 有楽町 スバル座他にてロードショー)
[メディアファクトリー『ダ・ヴィンチ』 2003年12月号]
(作品論はこちら


ティアーズ・オブ・ザ・サン(2003,アメリカ)

  この物語はフィクションである。舞台となっているアフリカはナイジェリアで、最後に軍事クーデターが起きたのは10年前。武力衝突は散発的に後を絶たないようだが、内政は一応安定している。
  だがこの映画を見たら、10人に9人は「ナイジェリアではいまこの瞬間に、イスラム過激派が、正当な政府の支持者やキリスト教徒を虐殺している」と信じるのではないか?
  ニューヨークや歌舞伎町を舞台にした犯罪ものフィクションを見て、実話だと思い込む人はまずいないだろう。だがよく知らない国の、まして戦争についての映画だと、なぜか勝手に「衝撃の実話」と信じ込んでしまいがちだ。
  なんでわざわざ、実在の国に架空の悪者を設定してまで、アメリカの正義を騒ぎ立てなければならないのか? だがそれこそがこの映画の狙いなのではないか? ”現実には存在しない”内戦に米軍が介入して、百戦錬磨の特殊部隊が、軍の命令に違反してまで、イスラム過激派を叩き、親米派政府の後継者を救い出す、という、反イスラム・キャンペーンが、全編にわたり展開されている。
  しかもイスラム過激派「反乱軍」の暴虐ぶりは、克明に描かれる。女子供も見境なく殺す。人道支援のためにやってきた外国人を、問答無用に殺す(もちろん国際法違反)場面まで、はっきり撮っている。
  そのくせ映画のできはまるでだめ。なぜ所属もはっきりしないアメリカ人女医(モニカ・ベルッチ)を救うために、特殊部隊が送り込まれるのか、十分な説明はない。多くの修羅場をくぐってきた大尉役のブルース・ウィリスは、なぜ今回に限り、規則違反を承知で難民を救う気になったのか、心理の変化を表現できていない。特殊部隊の面々はキャラが弱く、映画のラストまで名前と顔すら一致しない…杜撰な脚本と非力な演出に退屈するばかりだ。
  これは「9.11」でぶち切れたあげく、でっち上げかもしれない怪しい理由で、イラクに侵略戦争を仕掛けたアメリカ・ネオ・コンの傲慢な”正義”を、娯楽を手段に正当化しようとする、邪悪で危険な作品だ。こんないかがわしい”正義”に騙されるな!

(10月25日より東京・有楽町 日劇1他全国東宝洋画系にてロードショー)
[集英社『週刊プレイボーイ』 2003年 No.46 11月11日号]


ポロック 二人だけのアトリエ(2002,アメリカ)
★★★

  ジャクソン・ポロックは絵の具をカンバスに垂らし遠近感を表現する技法「ドリッピング・アート」を確立した前衛画家。アメリカ人としては初めて、世界の美術史に名を残したポロックの、自己破滅型の生涯を、『スターリングラード』の名優エド・ハリスが自らメガホンを執り映画化した。
  映画は第二次大戦中の不安な時代に、ポロックが、運命の女性リー・クラズナーと出会うところから始まる。酒に溺れる日々から、最愛の女性に支えられ、理想の新しい絵画を求め。格闘する画家の姿は実に生々しい。
  しかしポロックは、名声を確立した後、更なる新しさを求めてに行き詰まり、自殺同然の死を迎える。ラスト20分で描かれる、真の芸術を見る眼があるからこそ、己の限界までを見据えてしまった人間の悲劇が痛ましい。

(11月1日より東京 有楽町 シャンテ・シネにてロードショー)
[メディアファクトリー『ダ・ヴィンチ』 2003年11月号]


死ぬまでにしたい10のこと(2002,西−加)
★★

  製作総指揮は『トーク・トゥ・ハー』のペドロ・アルモドヴァル。スペイン人スタッフが、東部の大都会トロントを舞台に、カナダ人俳優と組んで撮った。異色の顔合わせと言えるが、ラテンのスタッフはカナダの磁場に引き寄せられているようだ。完成した映画には、カナダ的と言いたい、手触りと感傷が満ちている。
  ヒロインのアンは十代で結婚した二児の母。仕事は大学の清掃員。夫は失業中で、母の家の裏庭にトレーラー・ハウスを据えて生活している。どこをとってもロマンティックな要素のない設定だが、彼女の生活には暖かさに満ちている。最愛の家族に囲まれ、淡々と日々を送ることの幸福が静かに伝わってくる。
  そんなアンが、突然難病に襲われる。23才の若さで死を宣告されたアンは、人生でやり残したことを箇条書きにして、実行することに決める。その「やり残したこと」たるや、「爪と髪型を変える」「好きなだけ酒とタバコをやる」など、ある種の人にとっては当たり前の事柄がほとんどである。「夫以外の男性とセックスする」という目標もあり、人生最初で最後の浮気を実行する一方で、「娘たちの気に入る新しいママを探す」「娘たちの18才の誕生日までの、ハッピー・バースデイ・メッセージを録音しておく」と、愛する家族への思いやりにも欠けていない。
  こんな”死ぬまでにしたい10のこと”リストを読むと、人間の欲望というのは、煎じ詰めると、ささやかなことでしかないのかとしみじみする。日本でもこの映画の公開に合わせ、各界著名人の”リスト”を集めたムック本が出るというが、現実に「あと2ヵ月の命」といきなり言われたら、アンのように、当たり前のことをしたいと思うのではなかろうか。
  この当たり前さ、ささやかさの尊重定が、カナダ的である。カナダ映画は過去にも『ジャックと11月』『ソナチネ』など、死と向き合う若者を描いた、珠玉作を生み出している。そこでも主人公たちは平凡な日常と向き合い、小さな出来事を全身で受けとめ、歓び、絶望していた。
  小説の世界に目を転じると、日本でもっとも愛されているカナダ文学は、モンゴメリ作『赤毛のアン』シリーズだろう。見た目は冴えないが夢想家の少女アンの一代記は、時代を越えて文学少女のバイブルであり続けている。 『赤毛のアン』シリーズでは、才気煥発な少女が、プリンス・エドワード島の自然の中に育ち、大学進学も果たす。いわば少女のサクセス・ストーリーなのだが、成人したアンの行き着く先は結婚であり、娘を育てる母としての日々だ。
  この映画のアンはハイ・スクール卒で、大都会トロントの片隅でブルー・カラーの仕事をしている。赤毛のアンの環境とは大きな差があるが、二人には両者は家族を獲得し、維持することの価値を知っているところに、共通する人生観がある。赤毛のアンのおしゃべりが、読者に幸福感をもたらすのは、夢を支える日常が確乎としているからではないか。それは同時に、彼女が恋愛至上主義に走らず、バランスのとれた人格を形成する上で、大きな意味を持っている。
  二人のアンは、愛される歓びを知りながら、満ち足りた日々を送る幸福を、日本人にも再認識させてくれるのだ。

(10月25日よりヴァージン・シネマズ六本木ヒルズ他全国ヴァージン・シネマズ系にてロードショー)
[メディアファクトリー『ダ・ヴィンチ』 2003年11月号より]


聖なる映画作家,カール・ドライヤー
★★★★−★★★★★

  無声映画期から一九六四年まで、映画史を駆け抜けた、デンマーク出身の異端映画監督、カール・ドライヤー。彼は人間の形をした悪魔、すなわち生きる喜びを抑圧する、愚かで傲慢な他人との対決を追い続けた監督である。なのだ。その映画の本質は、人間の生々しさをエロティックなほどに捉えた映像の、リアルな官能性にあるのだ。
 入門に最適なのは『吸血鬼』(★★★★[付記参照])。トーキー初期に、ドイツのウーファ撮影所で作られたホラー映画の古典だ。主人公の少年の白日夢を重ね合わせてゆく手法は、時代を越えて衝撃的。白黒映画だから表現できた無気味な映像は新鮮ですらある。教科書的意味ではなく、映画ファンなら必見である。
 ジャンヌ・ダルクの最期を題材とした『裁かるるジャンヌ』(1985年修復版・20コマ上映★★★★★)では、少女ジャンヌの苦悶を生々しく捉え、宗教上の伝説の人物を、普通の女の子として描写。観客の「聖人」に対す先入観を打ち壊す。中世の魔女裁判がテーマの『怒りの日』(★★★★[付記参照])では、セクシーなヒロインを”魔女だ!”と告発する側の人間たちのいかがわしさが暴かれる。
 頑迷な一家の主人と家族のいさかい綴る『あるじ』(★★★★1/2)は、とてもユーモラス。妙にリアルなくせに、見た後幸せになれるホーム・ドラマだ。一方遺作となった『ゲアトルーズ』(★★★★)は、恋愛至上主義に殉ずるヒロインを”人間の姿をした悪魔”として格調高く描く問題作。”バカな人間は恋もSEXもするな”という、永遠の真理が胸に染みる。
 そんなドライヤーの最高傑作が『奇跡』(★★★★★)。田園地帯の二つの家の対立を、至高の美でフィルムに焼き付けつつ、人生の心に潜む最大の”悪魔”は、自分の弱さと過ちを認めないことだと、胸に染み入るタッチで展開する。振り子時計の音が印象に残る、悠然とした時の流れに身を任せていると、ラストにどんなサイコ・スリラーよりスリリングな奇跡が起こる。信仰のない人間でも、なぜか感動してしまう、映画史上屈指の名作だ。
 映画雑誌もテレビも教えてくれない、隠れた巨匠の傑作陣、25年ぶりの日本上陸。通し券を買って劇場に通いつめよ!
[付記:本校執筆後、判明した事実について。『吸血鬼』は1999年作成の復元版ではなく、1995年(メモしそびれたので誤っているかもしれません、確認でき次第訂正します)に作成されたドイツ語復元版で、ドイツ語版でカットされたシーンが、全編終了後に、付録のような形で上映されます。研究者にとっては興味深い措置ですが、劇場で見る一般映画ファンには不親切とも思われます。ゆえに今回の上映版は ★★としますなお、1999年復元版は世界中で未DVD化のままです。詳細はCriterionのページ(英文をご覧ください。
 また、今回初めて『怒りの日』を良好な35ミリ・プリントで見ました。上のレイティングは以前状態のよくない16ミリ・プリント(フランス語字幕)で見たときの印象で、今回の上映版は ★★★★1/2とします]
(10月11日から13日まで有楽町朝日ホール、28日から11月12日まで東京国立近代美術館で開催、11月15日より東京・渋谷 ユーロスペースにてロードショー)
[集英社『週刊プレイボーイ』 2003年No.44  10月28日号]


月曜日に乾杯!(2002,仏−伊)
★★★★1/2

 「日本なんかダメだ。海を渡ってビッグになる!」こんな志を胸に、海外に旅立つ若者は、男女を問わず数多い。だが、日本に帰ってきて「こんなはずじゃなかったのに」とくすぶってるヤツもかなりの数に上る。
  外国に行って楽しいのは当たり前。現地の人から見れば日本人は所詮旅人。「いい思い出作ってね」とやさしくしてくれるだけ。マジに生きるとしたら、日本でダメなヤツはどこに行ってもダメなのだ。
  この映画はそんなキビシイ事実を、飄々とした笑いにくるんでバシッと描き上げた傑作コメディだ。
  監督のオタール・イオセリアーニは、旧ソ連時代、小国グルジアで頭角を現し、世界の映画祭で絶賛を受けた。そして80年代以降はフランス資本で、東西の壁を越えた新作を発表し続ける、筋金入りの国際派巨匠。真の国際派の条件を自ら体現しているだけに、描く世界は、説得力抜群である。
  フランスの小さな村で、工場に勤めるヴァンサンは、平凡な毎日にウンザリ。口うるさい家族から逃げたいとの思いも手伝い、ある日突然失踪、目指すは水の都ヴェネツィアだ。
  ヴェネツィアはイタリアらしい陽気さに溢れ、「毎日が仮面舞踏会」モード。ほら吹きの偽男爵、こすからいスリ、妙な旅行者など、おかしなヤツらに囲まれながら、ゴンドラに揺られ酒を飲み、リゾート気分を満喫する。
  ところが、ヴァンサンの村では、彼が失踪したことに誰も気が付かない。手紙を盗み読みする郵便配達人、隣人の家を覗く夫婦、教会の壁画修復の合間に女を口説くのに躍起になる男などなど、ヴェネツィアに負けず劣らず、ここでも変なヤツらが珍事件を起こし続けている。
  世の中に平凡な人間なんかいない。みんなどこかヘンなんだ。日常が平凡なのだとしたら、外国にだって平凡な生活しかない。要は自分がしっかりしてるかどうかなのだ。   こんな当たり前の話を、テレビのバラエティやハリウッド映画とは違う、くすくす笑いに満ちた、スマートな映画にしてしまうあたりは、さすがの巨匠業。通好みの完成度の高い名作だ。

(10月11日より東京・有楽町 シャンテ・シネにてロードショー)
[集英社『週刊プレイボーイ』 2003年 No.42 10月14日号]


アララトの聖母(2003,カナダ他)
★★★★1/2

 『アララトの聖母』は、近年破格の傑作である。見るものの世界観を揺さ振り、人生観をも変え得るダイナミズムを胎んだ、歴史的金字塔だ。
  舞台はカナダ。フランスの映画監督が、トルコ軍によるアルメニア人虐殺を検証するためにやってくる。カナダには、虐殺を逃れたアルメニア人画家を研究する美術史家がいる。彼女の息子は、映画の撮影に携わることにより、自分のルーツを辿る旅に出掛ける。トルコ人総督を演じるアラブ系カナダ人俳優は、歴史的事実により、自分のアイデンティティの危機にさらされる。そして定年間近の税関職員は、不審物を持ち込もうとするテロリストの息子を尋問する…
  一見無関係に見える登場人物が、偶然で結び付けられてゆくドラマは、ロンドのように流麗。そこに「人間は事実を知ることができるのか」「自分と無関係な過去が、なぜいまの自分に関わってくるのか」「憎み合う歴史を背負った人間同士は、和解できるのか」という問題が、次々と繰り出される。更に時空を縦横無尽に越える映像世界は、眩暈を呼び起こし、観客の五官を絶えず刺激し続ける。
  監督のアトム・エゴヤンは、カイロ生まれのカナダ在住アルメニア人。『エキゾチカ』などの傑作で、ヨーロッパでは重要な映画作家として地位を獲得している。今回ライフ・ワークとも言えるこの作品で、映像の二十世紀を総決算する、映画言語を展開する。
  芸術性と社会性を兼ね備え、プルースト的意識の流れと、ポスト・モダン以降を踏まえた社会学・歴史学的視点を持つ姿勢は強靭。湾岸戦争以降の映像の時代に、強烈な意義申し立てを突き付ける。
  映画に単なる娯楽以上のものを求める人は、二度三度とスクリーンで見直してほしい。謎を解き進む内に、ラストに提示される、言葉では表わせない希望に、涙を禁じ得なくなるだろう。

(10月4日より東京・有楽町 シャンテ・シネにてロードショー)
[メディアファクトリー『ダ・ヴィンチ』 2003年10月号を改変]


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