Office NESHA presents movie guide Nov/Dec. 1997

目次
(この色の作品は★★★★以上獲得作品です)
レイティングは★★★★★が最高点。
詳細はこちらをご覧下さい

ストローブ+ユイレ映画祭
電気の亡霊/ディーゼル
ポネット
私家版
キャリア・ガールズ
火の鳥/タンゴ・レッスン
メン・イン・ブラック/セブン・イヤーズ・イン・チベット
ぴあフィルム・フェスティバル1997(『放浪者』『小さなカオス』他)
NY検事局
さまよえる人々
黒い十人の女/君も出世ができる
萌の朱雀

ストローブ/ユイレ映画祭(1964/92)
★★★★★(文中に登場の全作品)


  ジャン=マリー・ストローブとダニエル・ユイレの、92年までの全作品を、神戸ファッション美術館が購入した――このニュースは世界の映画関係者に衝撃を与え、全国巡回上映が遂に始まる。

 このふたりは64年の監督デビュー以来、「作家主義の極北」とも呼ばれる活動を続けている。製作資金調達からフィルムの現像、上映権まで、映画を自分たちの作品として管理。しかも低予算の中、高い技術水準を維持、非妥協的製作姿勢を貫いているからだ。

 長編短編合わせて18本に及ぶ作品陣は多彩を極め、魅力を要約することは不可能だ。ここでは一側面に限定して語ることにしよう。

 ふたりの劇映画の傾向のひとつに、未完成の芸術作品や断片的テキストの映画化がある。特に古典的題材を近年の芸術家が作品化したものが目立つ。

 ストローブ/ユイレは、未完成の作品を独自に完結させはしない。未完成の余白、断片の間隙を見極め、歴史と現代を結ぶ"線"を追求する。

 たとえば『アンナ・マグダレーナ・バッハの日記』のテキストは、J.S.バッハをめぐる当時の人々の証言の数々。冒頭、楽譜のアップからソロを弾くバッハの姿、アンサンブルの全体像までズーム・アウトするワン・ショット。このズーム・アウトのタイミングが、音楽の符割りとほぼ一致する。クラシックの知識がなくても、バロック音楽と即興演奏の関係が目で見て分かり、胸が躍る。音楽の視覚化という離れ業が、いとも簡単に成し遂げられた作品だ。

 今世紀の前衛作曲家シェーンベルクは最晩年、旧約聖書を題材としたオペラ『モーゼとアロン』を遺した。74年の映画化は、大半がイタリア中部の古代ローマ円形劇場遺跡でロケ撮影された。強烈な陽光と場の意識は、オペラ・ハウスでは得られない存在感を登場人物に与え、古代人の苦悩が二千年以上の時を越え、今を生きる人間の問題として生々しく迫ってくる。政治・思想・大衆論・民族問題に対する深い省察と、技術・構図・色彩などの映画美学が鮮烈に火花を散らす。

 ストローブ/ユイレは、音楽映画専門の監督ではない。86年に発表された『エンペドクレスの死』は、ギリシャ悲劇に材をとった、ヘルダーリン未完の戯曲が原作。最近の劇場演劇のように設定や衣装を現代風にアレンジすることなく、コスチューム・プレイに徹することで、かえって現代性を獲得している。カメラの動きが極めて少なく、画面の構図が厳格なので、画面内の隅々にまで集中して見ていると、風や砂、草木などの自然が、登場人物と同様に自己主張を始めるのだ。同じ原作の断片の映画化『黒い罪』の、ベートーヴェンの使い方は前代未聞の衝撃。『エンペドクレスの死』の補遺にとどまらない、別個の緊張感に息を呑む。

 そして92年の『アンティゴネー』。ふたりの姿勢はなおも挑戦的であり続けている。同じく古代ギリシャをベースにした作品。人物のバスト・ショットが古代のトルソ彫刻を思わせる。そこにロング・ショットが相まって、ミクロとマクロの対比に流麗なカメラ・ワークと編集が加わり、一瞬たりとも眼が離せない。緻密な音響設計にも舌を巻く。

 以上6作品の共通点は、厳格にして解放感に満ち溢れ、複雑でありながら自由がある、と言えばよいか。

 その結果、観客は人間そのもの、世界そのもの、歴史そのものと向き合う体験をする。興奮としか名づけようのない時間を生きる。

 そして不思議なことに、作品を見た後に、もととなった文学や音楽に、手を伸ばさずにはいられない。いや、それはちっとも不思議なことではない。映画と文化的背景を往復することで、観客の好奇心は、飽くことのない、知性の、心の、冒険へと旅立つのだ。

 もとより芸術作品の受容とは、その冒険に他ならなかったのではないか? 80年代以降蓮實のエピゴーネン達が弄ぶ、似非アカデミズム映画観に敢然と抗議し、彼らが抹殺した、映画の、芸術の真の歓びを取り戻そうと、ストローブ/ユイレを購入した、神戸ファッション美術館の学芸員の見識の高さに心から感謝し、拍手を送りたい。

[報雅堂『Composite』1998年1月25日-3月25日合併号、一 部加筆訂正]


電気の亡霊(1998,スイス)/ディーゼル(1986,フランス)
★★★★1/2--★1/2


  ハリソン・フォード、ディカプリオなど、スターの来日で華やかな話題を振りまいた第10回東京国際映画祭。その渦中で心ならずも時の人となった人物がいる。

 その名はロバート・クレイマー。60年代からアメリカ公民権、ヴェトナム反戦運動に関わりつつ重要な作品陣を発表。いまはパリを拠点に歴史と現代のつながりを追求し、21世紀を生きる指針を追い続けている、インディペンデント映画の巨匠である。

 日本で正式公開作が1本、それも自ら認める失敗作『ディーゼル』(★1/2)しかないクレイマーの作品が、3本上映されることは、今回の映画祭、真の目玉だった。

 ところが彼の最新作、『電気の亡霊』の中に、既成のポルノから引用した、性器のクローズ・ショットが2カット、20秒ほどあったことが、税関で問題となったのである。

 東京国際映画祭は、国際映画祭連盟に加入している。同連盟規約は上映作品への検閲を禁じており、過去の出品作品でも性器露出シーンは無修正で上映されていた。

 だが『電気の亡霊』は、映画祭当局が該当箇所を「自主的に」カットして上映された。映画祭史上初の措置である。

 これに対し、映画祭公報担当者は、取材に応じてこう経緯を説明した。

「東京国際映画祭では、第1回以来、ポルノは一切上映しないという方針で運営しています。『電気の亡霊』の場合、作品は素晴らしいから上映したい、でもポルノの引用は困る、ということで、監督の同意を得て、該当箇所を修正しました。連盟規約では作り手との合意による修正は、禁止されておりません」

 だが、当の監督は11月5日の上映に先立ち、舞台挨拶で次のように抗議しているのだ。

 「今回、国内法と連盟規約の間に立って、税関は判断を放棄した。その結果映画祭側が"自主的に"修正を決めたのです。問題となったのは、ポルノグラフィと戦争の関係を問うシークエンスだ。抗議として、私はそのショットがあるべき箇所に、黒いフィルムを挿入し、音も一切消しました。このような修正を求めた映画祭に"アジア最大の国際映画祭"を自称する資格があるのでしょうか!」

  とても和やかに同意した雰囲気ではない。双方の言い分はまるで平行線なのだ。しかも後日、監督は筆者に個人的にこう語っている。

「映画祭の組織委員会には各省庁の役人が名を連ねており、彼らが作品も見ずに、杓子定規に削除を求めたらしい」

 つまり、思想の検閲があったということではないか。しかし、これに関しても、

 「映画の公開に当たっては、税関だけでなく警察など様々な方面との関係がございますから……」(前出・担当者)

  と、曖昧な答しかもらえなかった。映画祭当局にとっては"解決済み"で、それ以上の問題意識はないらしい。

 では、ここまで問題となった『電気の亡霊』はどのような映画なのか?

 これは映像世界のヴァーチャル・リアリティのなかで、いかに人間が"もの"化するか、そして観客の側までコンピュータのように"もの"化してゆくかを描いた、真摯な問題提起の映画である。

 該当箇所の性器のアップは、ラストの「21世紀には、人間は自分の肉体すら必要としなくなるだろう」というセリフと共鳴するべく位置付けられていたようだ。

 現代戦争の大量虐殺映像と、既成のポルノを並立し、人間の肉体の物質化という、現代の大問題に切り込む。そして、いま「見ること」がはらむ危険への警鐘を鳴らす、のポルノと戦争を非難する作品だ。

 当局はその「ポルノ否定」思想を削除したのだ。

 映画関係者の久我丈志さんは当日の上映を見て、問題の箇所で画面が真っ黒になったとき「はあっ?」と拍子抜けしたという。

「まるで太平洋戦争中のスミ塗り教科書を見せられた感じ。時代錯誤の暴挙ですよ。監督が出品を取り下げず、修正箇所が分かる形で上映してくれたのは、積極的問題提起と受けとめ拍手を送りたいですね」

 クレイマー作品を紹介したこと自体は第10回東京国際映画祭の功績である。しかし皮肉にもその結果は、日本の思想統制の現状を垣間見せたこととなってしまった……

(追記: 問題の修正箇所は、1998年、クレイマー監督の1998年作品『City Empire』に引用され、日本で自主上映の際、無修正で上映された。)

 『電気の亡霊』のレイティング:日本上映版 ★★★1/2
                 オリジナル版★★★★1/2


[集英社『週刊プレイボーイ 』No.49, 1997年12月2日号]


ポネット(1996,フランス)
★★★★1/2


 大作群の陰で公開されるジャック・ドワイヨン監督の新作『ポネット』は、見逃せない作品だ。ジェーン・バーキンと離別後(ふたりが夫婦だったことは一度もない)神経症的な側面が消え、成熟の歩みを見せてきた彼は、ヌーヴェル・ヴァーグのどの作家も成功しなかった題材に取り組んだ。

 4歳の少女が母親の死を、現実として受け入れるまでを描く98分。「愛は死を克服できるか」という永遠のテーマが展開される。

 大人たちが子供をなだめるために弄する言辞のひとつひとつが、宗教の欺瞞を暴いてゆく。悲嘆に暮れてばかりいるヒロインを取り巻く子供たちは、残酷で無責任でエゴイストだ。大人が自分の希望をつなぎ止めるために掲げる「子供は天使である」というスローガンは砕け散る。子供の視点にカメラを設定し、「見下す」アングルを徹底して排除した、カロリーヌ・シャンプチエのカメラが、ここでも素晴らしい。

 そして「神なき時代の救済」が現れる。ドライヤーの『奇跡』以降、映画が抱え続け、タルコフスキイが『サクリファイス』でその突破口に立ちながら、志半ばで絶えた問題、呪縛が解き放たれる瞬間は、魂が震える感動を覚える。(ただしラストの"e^tre contante"は「満ち足りること」と訳さなければならない!)この偉業が「他人の映画はほとんど見ない」ドワイヨンの手で成し遂げられたことを、素直に歓迎したい。

 夜間シーンの色彩設計に違和感を覚える向きもあるかもしれないので、敢えて星を半分減じる。敢えて、である。

[報雅堂『Composite』1998年1月25日-3月25日合併号]


私家版(1996,英-仏)
★★★


  名作ミステリー小説の映画化が、失敗するのはなぜか?

 ミステリー小説の真の楽しみは、犯人探しではない(とは言え、当節はやりのサイコ犯物は"反則")。謎解きの過程で絡み合う、登場人物ひとりひとりの歴史を読み解いてゆく醍醐味だ。それを端折ってしまうから、空虚な作品にしかならないのだ。

 ベストセラー・ミステリーの映画化『私家版』は、真のミステリー精神を映画に具現した、稀有なる成功例である。

 主人公は初老で独身の英国貴族エドワード。演じるは、キレてる役がオハコのテレンス・スタンプ。だがネチネチしたサイコものを期待すると、快く裏切られる。正統派の紳士ぶりを、細かい仕草まで表現する。俳優として懐が深い人だと感服。

 私家版とは、愛好家向けに印刷された特別本のこと。エドワードはロンドンで出版社を経営している。そこにB級犯罪小説で売れっ子のフランス人作家が新作を持ち込む。「今度は純文学だ」と自信満々に持ち込まれた小説は、エドワードに生涯独身を決意させた、痛ましい過去の事実に酷似していた。この作家こそ、彼の人生を狂わせた張本人だったのだ。

 彼は復讐を決意する。相手を一度栄光に輝かせ、失墜させるという、スマートかつ憎悪をたぎらせた復讐を。作家に相応しく、本を使って……

 原作のエピソードを削り込み、衣裳や小道具、装置に背景を語らせる。そして脇にフランス演劇界の重鎮を配し、俳優の演技でキャラクターの深みを、一瞬で"見せる"演出が冴え渡っている。

 ユーロスターを駆使してロンドン―パリ間を駆け巡る、策略。"堪能"という言葉がピッタリの、玄人好みの一篇。正月映画の大穴だ。

[集英社『週刊プレイボーイ 』No.52, 1997年12月23日-30日合併号]


キャリア・ガールズ(1997, イギリス)
★★★1/2


  東京国際映画祭の受賞作品リストを見て、唖然とした。

 グランプリの『パーフェクト・サークル』はともかく、他は無難なウェル・メイド作品ばかり。でも審査員長が『イングリッシュ・ペイシェント』の製作者、ソウル・ゼインツじゃ、しょうがないか。

 映画祭の権威なんか、信じちゃいけない。今年のコンペ、ベスト作品は、『秘密と嘘』のマイク・リー監督の最新作、『キャリア・ガールズ』だ。

 大学時代、ルームメイトだった女友だちが、6年ぶりに再会して過ごす週末。全体のトーンとリズムは流麗で、テレビのトレンディ・ドラマのように、口当たりが良い。でもそこはマイク・リー。人生の光と陰を、可愛いドラマの一瞬にサッと駆け抜けさせる。

 学生時代、強気で姉御肌だったハンナ。パンク・ファッションに身を包む、アトピーで内気なアニー。ふたりとも心の奥では自信がなく、ちょっとしたことで傷ついた日々。

 30歳になり、ハンナは背筋をピンと張って歩く。アニーはアトピーも治り、柔らかな魅力をたたえるようになった。似たような壁にぶつかり、悩みながら、前進しようと明るく生きる。そこにおとづれる、男友だちとの偶然の再会が、世間の無責任さ、残酷さを映し出す。ただ大詰のシーンの切なさは、今の日本の女どもには分からないかも…ああ。

 『秘密と嘘』のような大ドラマこそないが、徹底して等身大の30歳にこだわった演出に俳優陣が応え、深い余韻を残す出来となっている。

 ハンナ役は『ネイキッド』『ビフォア・ザ・レイン』のカトリン・カートリッジ。繊細さと大胆さを兼ね備えた演技でひときわ光る。いま注目度ナンバー・ワンの女優だ。

 厭な事件の連続だった一年の厄落しにふさわしい秀作。私のグランプリはこれ。

[集英社『週刊プレイボーイ』No.49, 1997年12月2日号]


火の鳥(1997,中国)/タンゴ・レッスン(1997,イギリス他)
★★1/2/●


  大陸中国に、こんなスリリングな現代舞踊が存在するとは知らなかった。そのプリマ・ドンナ、ヤン・リーピンが脚本、共同監督をつとめた『火の鳥』(★★★)である。土着の舞踊と融合したバレエに息を飲む。ダンス映画としてもガデス―サウラの作品群を遥かにしのぐ出来。

 更に「バレリーナが色盲の危機を迎える」という卓越した発想が、映画の奥行を増す。儒教―家父長制に由来する、女の"性"にまつわるトラウマと深い偏見から、ヒロインが飛翔するラストが感銘深い。

 同じダンス映画でも『タンゴ・レッスン』(●)は、踊りの素人サリー・ポッター監督自ら主演。トラウマを武器に被害者意識を盾に取り、肥大した"自我"を押しつけてくる不快さは、ポスト・フェミニズム最悪の選択肢である。年令性別国籍を問わず、近頃のインテリには、技術の意味を分かってないのが多すぎる。

[報雅堂『Composite』1998年1月25日-3月25日合併号]


メン・イン・ブラック(1997,アメリカ)/セブン・イヤーズ・イン・チベット(1997,アメリカ他)
★★/★★1/2


 1998年正月の大作群はその前提で、お薦めは消去法で『メン・イン・ブラック』(★★)。

 スタイリッシュでちょっとシリアスな『ゴーストバスターズ』という趣で、お子さま向けの荒唐無稽だが、トミー・リー・ジョーンズの渋い魅力のおかげで、大人の観賞にも一応耐える。ただ「虫は動物ではない」という欧米的"動物愛護"の欺瞞性が、日本人には鼻につく、なんて言うだけ野暮か。

 本稿入校後に『セブン・イヤーズ・イン・チベット』(★★1/2)をやっと捕まえる。正月のイチオシはこれである。

[報雅堂『Composite』1998年1月25日-3月25日合併号}


ぴあフィルム・フェスティバル1997(『放浪者』『小さなカオス』他)
★★★★1/2--●


  カンヌ受賞作『萌の朱雀』が話題だが、「イメージ・フォーラム・フェスティヴァル」などで自主映画を追い続けてきた人なら、あの監督が特別な存在ではないと知っているだろう。同フェスティヴァルと共に、日本の若い自主映画製作者を応援し続けてきた「ぴあフィルム・フェステイバル」も、今年で20回を迎える。

 日本映画のコンペ部門で「PFFアワード」を選出し、近年ではグランプリ受賞者に、商業作品製作の支援まで行なっている。学生時代の岩井俊二がこのコンペの常連で、一度もグランプリを獲れなかった、と言えば「PFFアワード」の意義が分かるだろう。

 他人の評価に踊らされず、自分の眼で映画の未来を見極める絶好のチャンス。観客賞も選出されるので、審査員になったつもりで参加しては?

 関連企画で「みんな最初は新人だった」のコンセプトのもと、有名監督の初期短篇が見られるのも嬉しい。ワイダやルーカスといった大御所からゼメキスまで一堂に会する。

 最大の見物は、ドイツのファスビンダー監督の初期2本、『放浪者』(★★★★1/2) と『小さなカオス』(★1/2)。パゾリーニと並ぶ戦後ヨーロッパ最大のラジカルな芸術家で、夭折というには熱すぎる生涯を終えた鬼才である。同世代のヴェンダーズの、珍しい短篇も上映されるので、見比べるのも一興。

 海外のヤング・シネマ映画祭で受賞した作品の招待上映もある。

 最大の珍品は、ドキュメンタリー部門に紛れ込んで上映される『コリン・マッケンジー/もうひとりのグリフィス』(未見)。カルト・ムービー『乙女の祈り』のピーター・ジャクソンが放つ、一世一代の大バクチ。中身は見てのお楽しみ!

 若い作り手の思いに負けないよう、頑張って通いつめよおうじゃないか。

(追記: PFFアワード97 グラ ンプリ受賞『シンク』★
     同準グランプリ受賞『鬼畜大宴会』●)

[集英社『週刊プレイボーイ』No.51, 1997年12月16日号]


NY検事局(1997,アメリカ)
★★★


  今回のテーマは、ずばり、正義である。

 オウム真理教、酒鬼薔薇事件…悲惨極まりない一連の事件が複雑なのは、容疑者の「子供」が、同時に社会の被害者でもある、という現実があるからだ。でもそれで事件の被害者の傷が癒えるはずがない。(エヴァンゲリオン、『冷たい血』、ビートたけしの映画…甘ったれんな!)この複雑さなかで、みんな大切なことをあきらめている。

 多民族国家アメリカでは、状況はもっとひどいみたいだ。そこで『NY検事局』である。

 主演のアンディ・ガルシアは、警官上がりの新人検事。彼は検事局の政治的駆け引きの結果、ニューヨークのアフロ系シャブの売人の裁判という大事件をいきなり請け負うことになる。対する弁護士は人間問題で知られる敏腕弁護士(リチャード・ドライファス)、そして事件には、アンディの父が、思わぬ形で絡んでいた……

 最初の1時間で事件は読めてしまい、正直拍子抜けする。しかしそこからが社会派娯楽サスペンスのベテラン監督、シドニー・ルメットの本領発揮。どうしようもない現実と怒りと絶望の中で、いかに誠実に、人間らしくあろうとするか。ひとりひとりの生き様を、緊迫感たっぷりに描く。

 登場人物がそれぞれに取る選択、そして結末のつけ方が、悲しくも感動的。ラスト5分でドライファスとガルシアが、一世一代の大芝居を見せてくれる。「確かに現実はひどい。だが、あきらめるな!」という、監督のメッセージが、静かに心にしみてくる。

 アンディ主演だし、彼女と見てみたらどうだろう?この映画を見て、議論ができないような女とは別れてしまえ。そんなのと結婚したら、20年後に後悔するぞ。あきらめなければ、正義はある!

[集英社『週刊プレイボーイ 』No.46, 1997年11月11日号]


さまよえる人々(1995,オランダ-イタリア)
★★★


  その昔、フェリーニ、ベルイマン、アントニオーニなどの映画は、「難解」な「芸術映画」と呼ばれ、みんな「わからない」と言いながら、あれこれ騒いでいた。

 別に「難解」がオシャレだったわけではない(はずだ)。そのあまりに魅力的な世界の本質を捕まえようと、観客は四苦八苦していた。要は映画自体が面白かったのだ。

 80年代後半、この「面白いけどわからない」が「わからないから面白い」に価値転倒を起こし、映画は"アート"になり、現在の世界的映画不振に至る。バカバカシイ!

 そこで断言する。オランダのヨシュ・シュテルング監督の『さまよえる人々』は、「芸術映画」である。

 舞台は17世紀。フェルメールを思わせる色彩の田園に、いきなり現れる巨大な石像。中から兵隊が出てきて、目についた農婦と即アオ姦して死んじゃう。形見の息子はオツムが弱く、いない父親を探して旅立つ。廃船の中で妙なセムシ男に出会い、挙げ句は奴隷に売り飛ばされて…

 どうだ、ワケわかんないだろ? スクリーンで見ると、もっとわかんないぞ。

 だけど面白い。メチャクチャ面白い!何が何だかわからないうちに、不思議な世界に引き込まれてしまう。こんな快楽は『サテリコン』以来だ。

 根底には「ヨーロッパの小国のアイデンティティ」という重いテーマがある。それを深刻ぶらず、オモチャ箱を引っ繰り返したみたいに、シッチャカメッチャカに描いたあたり、ヨーロッパ侮りがたし。

 つまり「芸術映画」とは、肉食人種のエネルギッシュなイマジネーションの、フルコース・ディナーなのだ。

 さあ召し上がれ。ファースト・フードみたいな"アート"ばかり見てると、心と頭が栄養失調になっちゃうぞ!

[集英社『週刊プレイボーイ 』No.45,1997年11月4日号]


黒い十人の女(1961,日本)/君も出世ができる(1964,日本)
★★1/2/★★★★1/2


  日本の娯楽映画は、60年代初頭に頂点を極めた。でも当時、観客はすでにテレビに流れおり、偉大な伝統はすたれてしまう。この埋もれた時代の二大スタイリスト監督の傑作が、リバイバルされる。

 まずは『ビルマの竪琴』などで巨匠と勘違いされている市川崑。その正体は、キッチュすれすれの超モダニスト。

 今回公開は61年作品『黒い十人の女』(★★1/2)。モノクロ・シネスコの闇のなか、黒いコート姿の、8人の女が追跡劇を繰り広げるオープニングにノケゾる。「熱中時代」の校長先生、船越英二が軽佻浮薄の極みみたいな、プレイボーイ役、その名も「風」ときたもんだ。

 20歳そこそこの中村玉緒(カワイイ!)が、ムーミンを地でゆく岸田今日子と取っ組み合いの乱闘を見せてくれる。

 「風」を女10人で殺しちまおうという、お話も破天荒。若い観客は大女優、山本富士子の不気味さ、岸恵子のカッコヨさ、宮城まり子のコメディエンヌぶりに唖然とせよ。

 シャープで遊び心満点のカメラは、クリストファー・ドイルなんかメじゃないぜ! 崑ワールド全開の、オシャレな怪作だ。

 二人目は仲代達也版『野獣死すべし』で知られる須川栄三。谷川俊太郎、黛敏郎と組んだ64年作品『君も出世ができる』(★★★★1/2)は日本ミュージカル映画史上、文句なしの最高峰だ。

 フランキー堺が『雨に歌えば』のドナルド・オコンナー顔負けに歌い踊り、雪村いづみはじめ、当時の大スターが総力を結集。一世を風靡したダンシング・スタッフが弾けまくり、MGMミュージカルにも比肩する大迫力! 僥倖の1時間半が待っている。

 さあ、日本映画の隠れた黄金時代を、今こそ再発見するのだ!!

[集英社『週刊プレイボーイ 』No.42, 1997年10月14日号]


萌の朱雀(1997,日本)

  最近の日本映画は賛否両論だ。見ていない人の言葉は論外として、「元気だ」という評価と「これまで以上につまらなくなっている」と真っ二つに割れている。

  ひとつだけ確かに言えることは、日本映画の技術水準は、世界的に見て、非常に低いという事実だ。

  通常劇場で映写される映画は、35ミリのフィルムで撮影されている。ところが現在、日本映画の大半は、製作費削減のため、半分以下の面積しかない16ミリフィルムで撮影され、劇場公開時に35ミリにブロウ・アップされてプリントが作られるのだ。もとの画面内の情報量が半分以下だから、劇場で映写される映像は、いわば拡大コピー。粒子が粗く、暗くなるのだ。これで諸外国の映画と同じ入場料金を取って良いはずがない。

  今年のカンヌで最優秀新人監督賞を獲った『萌の朱雀』を見て、「時間を返してくれ!」と叫びたくなった。タダで見るにも値しない代物なのだ。

  ブロウ・アップ云々以前に、カメラのアパーチャ・ゲイトに付着した埃が写り込んでいるショットを、平然と本編に残した監督の無神経さに怒りを覚える。潜在的近親相姦を描いているらしいが、誰と誰が血族で、誰と誰が姻族なのか、ラスト直前まで理解できない。途中10年近い年月が流れているはずなのに、大人の俳優が時の流れを表現できていない。脚本・演出・演技と、すべて稚拙だ。

  ラストに8ミリ映像を使用する、監督の臆面のない幼さは、人間と映画をナメている。たとえ10億ドルかけても、この映画は傑作とはならなかっただろう。カンヌの受賞は、日本家屋が出てきてセリフが少ないから「小津」「ブレッソン」と勘違いされたとしか思えない。賛辞も蔑視の一形態たりえるのだ。注目すべき日本の新作は他にある!

[報雅堂『Composite』1997年11月25日号]

(c)BABA Hironobu, 1997/ 2021. All rights reserved.
本サイトのすべてのソースを、作成者の許可なく転載・出版・配信・発表することを禁じます。

ムービー・ガイド表紙に戻る

オフィス・ネーシャ トップ・ページに戻る