Office NESHA presents movie guide
Mar/ Apr.1998

目次
レイティングは★★★★★が最高点。
詳細はこちらをご覧下さい

ブラックアウト
南京1937
炎のアンダルシア
ウィンター・ゲスト
グッドウィル・ハンティング
女優マルキーズ
十二夜
エンド・オブ・バイオレンス
ゲット・オン・ザ・バス

ブラックアウト(1997,米-仏)
★★1/2

  欧米ではタランティーノをしのぐ人気を一部で誇っている異色監督、エイベル・フェラーラ――80年代B級アクション映画で頭角を現し、『バッド・ルーテナント 刑事とドラッグとキリスト』で決定的ファン層を獲得した。

 彼はキッチュとナルシシズムすれすれの際どい球を投げ続け、作品には当たり外れが激しい。新作『ブラックアウト』もサイケ調の映像連発、エロティックな雰囲気濃厚で賛否両論に割れている。

 ただこの映像の効果はヴィデオではわからない。スクリーンで見たとき、監督がこれらの要素を、一種のシニカルなパロディとして、主人公を冷徹に突き放すテコに使っていると痛感するはずだ。

 マシュー・モディーン扮するアル中でシャブ中の映画スターが、恋人(ベアトリス・ダル)に去られたのをきっかけに、社会復帰を遂げる。それでも毎晩悪夢にうなされるマシュー。謎を解く鍵は、マイアミで意識不明(ブラック・アウト)になった一晩にある。新しいマジメな恋人(クローディア・シーファー!)を振り切って、謎を確かめにマイアミに戻ったとき、彼はすべてを失うのだった。

 この映画には、ハリウッドや合衆国の堕落ぶりを楽しむ様子がまったくない。マシュー・モディーンはひたすらカッコ悪いし、キー・パーソンを演じるデニス・ホッパーもキレてるというより、ただのバカだ。

 いまやドラッグが高校生に蔓延している日本で、フェラーラのハード・コアな視点が、人間の弱さを「甘ったれんな!」と放り出す。その世界はもはや"リアリズム"と呼んでよい。

 さあ、"美学なき堕落"の世界においで。本当にアブナイ人間は、不気味で、情けないんだから。

[集英社『週刊プレイボーイ』No.18,1998年4月28日号]

南京1937(1995,中国)
★★1/2

  勃発から60年以上を経て、今なお論議の対象となっている、大日本帝国軍による南京ジェノサイド。南京事件とも南京大虐殺とも呼ばれ、帝国陸軍が中国人市民たちを多数殺害した、日中戦争史上、最も恥ずべき蛮行のひとつだ。

  南京問題については、日本の民族派から「虐殺はなかった」という書物が今でも出版され続け、中国側からは、物理的に不可能な大規模な被害が、喧伝され続けている。

 そんなわけで、中国が作った『南京1937』も完成から2年以上たって、ようやく公開されることになった。

 これは日本人の目から見ると、不思議な映画である。登場する帝国陸軍の軍人たちが、妙にスマートなせいだ。

『シンドラーのリスト』のナチのように、冷静に、計画的に南京という都市を攻略し、国際法に反して捕虜となった軍人を虐殺してゆく。

 日本製戦争映画で「英霊」として、汗を垂らしながら死んでいく兵士とは大違いの冷静さで、丸腰の捕虜や市民たちを無表情に、機関銃で殺戮してゆく帝国軍人の姿を見て、キミはどう思うだろうか?

 そこに違和感を覚えたら、よく考えてほしい。キミが日中戦争や第二次世界大戦の"日本兵"に抱いているイメージと、この映画に登場する、殺人機械のような帝国陸軍軍人の姿のズレを。

 おそらくアジア諸国に於いて、"日本軍"はいまなお、ナチのような存在なのだ。そのイメージが体感できる点で、この映画は貴重である。

 是非体感してほしい。そして、映画での事件解釈の是非よりも、日本人と中国人の一般市民夫婦をあえて主人公とした、呉子牛監督のメッセージに、思いを馳せてほしい。「戦争とは狂気である」なんて言葉で済まされない、重いテーマが、現代を生きる我々の問題として跳ね返ってくる。

[集英社『週刊プレイボーイ』No.19,1998年5月3日号]

炎のアンダルシア(1997,エジプト-仏)
★★

 『炎のアンダルシア』――ウォーッ、ラテンの血が騒ぐぜ! と思ったら大マチガイ。 スペイン南部がアラブ領だった14世紀の動乱を描いた、エジプト映画である。

 監督はユーゼフ・シャヒーン。去年の東京国際映画祭のヤング・シネマ部門の審査員長として来日して、多くの映画ファンが「誰、それ?」と言った人。過去の公開作2本もすっとぼけたコメディやダサイ音楽映画ばかりで、"エジプト映画最大の巨匠"と言われても「どこが?」って感じだった。

 でもこの映画はシャヒーンの真価を知るのに充分な、迫力満点の作品だ。マニアックなファン以外にも広く勧める。

 テーマは重い。最近世界を賑わせているイスラム原理主義の急進派と、宗教に縛られない自由な思想を持つ哲学者対立を軸に、「運命」という原題が示すとおり、エジプトの宗教を絡めた一断面が一大ドラマとして壮大に展開する。

 話は入り組んでいるし、正直なところ日本人の目にはアラブ系の俳優が、なかなか見分けがつかなくて、最初は混乱してしまう。だが一度流れに乗ってしまえば、『タイタニック』に代表される、見かけ倒しの大作にはついぞ見られない、雄大な世界観と人間模様に圧倒されるはずだ。

 またエジプト映画はインド映画の強い影響下にあり、歌と踊りはつきもの。この作品も例に漏れないが、歌や踊りが人間や民族の尊厳や、表現の自由と分かちがたく結びつき、映画の一要素として昇華している。さすがシャヒーン、巨匠である。

 イスラム教に偏見のある君は、それを洗い流す絶好のチャンス。しちめんどくさいこと抜きで、物珍しさや、エスニック気分でもいいから、劇場に脚を運ぼう。映画というものの豊かさと、普遍性を楽しめる逸品だ。

[集英社『週刊プレイボーイ』No.17,1998年4月21日号]

ウィンター・ゲスト(1997,イギリス)
★★★1/2

  美しい映画だ。掛け値なしに「美しい」などという言葉が、思わずため息とともに漏れてしまう映画だ。

 『ウィンター・ゲスト』。その名の通り、できれば冬に見たい。春の到来を待ちながら、息を潜めて凍り付くスコットランド海辺の村が、言葉を失う銀世界となってきらめく。SFXを駆使した凍結した浜辺の光景と、逆光のなかに立つ人物に繊細なライティングを施した撮影に、「これぞ映画だ!」と膝を打ちたくなる。

 主演はアリソン・ローとエマ・トンプソン、初の母子共演。夫を失い心を閉ざすカメラマンの娘と、彼女を勇気づけつつ、頼られたいと願う老齢の母。絶妙の掛け合いだ。 そこに絡むエマの息子と、彼に恋する突っ張り娘、葬式通いが日常となった、凸凹コンビのおばあさんたち、学校をさぼって海辺の探険に興じるふたりの小学生。

 とてもシンプルなストーリーが心の奥まで染み込む。ひとつひとつの科白のやりとりが、真珠のようにかけがえのないものに響き合う。そして「齢を取るのも悪くないな」と思わせてくれる。

 優しさに満ち溢れた映像世界。この原作が戯曲だなんて、信じられない。しかも監督はこれがデビュー作。その名はアラン・リックマン、あの『ダイ・ハード』1作目の悪玉の親分!

 実はリックマン、英国の舞台出身で、ブロードウェイに進出してハリウッド映画に引き抜かれたという経歴の持ち主。原作戯曲も<イギリスの舞台で演出しているのだ。

 全編を覆う死のテーマが、逆説的に生の価値を謳う讃歌となって、スクリーンに昇華する傑作。デートにも最適だが、ひとりで見たほうがよいかもしれない。泣いている顔を、彼女に見られたくなければ。

[集英社『週刊プレイボーイ』No.16, 1998年4月14日号]

グッドウィル・ハンティング(1997,アメリカ)
★★1/2

  『マイ・プライベート・アイダホ』のガス・ヴァン・サントは、90年代バブル以降、偽りの「強いアメリカ」復権のスローガンのもと、踏み付けにされる弱者へ、独特の眼差しを送り続ける監督だ。

 『グッド・ウィル・ハンティング』はおそらく主演のマット・デイモン(ディロンではない。顔はジミー大西そっくり)が共演のベン・アフレックと書いた脚本でオスカーを獲っているだろう。暗い過去を持つブルー・カラーの若者が、大学で非凡な学才を認められながら、階級差を前に固く心を閉ざす。一風変わったセラピストと、恋人の助けを得て、自分を解き放つことに成功する――いかにも大学生が思いつきそうな、頭でっかちの甘い物語が、ヴァン・サントの演出で、主人公のキャラクターにリアルな肉付けをもたらし、「ありそうなファンタジー」の域に高めることに成功した。

 「心の傷」という言葉は、最近あまりに安直な表現となってしまったが、この映画のラスト、"It's not your fault,"という言葉が与える癒しは、地獄を知るものだけが発し得る類のものだ。『いまを生きる』以来の名演を見せるR.ウィリアムズ含め、90年代合衆国映画の良質な成果として、広くお薦めする。だがエンド・タイトルの献辞「ギンズバーグとバロウズに捧ぐ」に日本語字幕が付いていないのはなぜだ。

[報雅堂『Composite』1998年5月25日号]

女優マルキーズ(1997, フランス)
★★★

  ソフィ・マルソーというと、どんなイメージを思い浮べる? 『ラ・ブーム』のジャリタレ、『狂気の愛』などの頭ブチキレ映画の脱ぎ女優、エステのCM…いろいろあるだろう。

 でもこの混乱ぶり(?)って、誰かに似てると思わないか? そう、『タクシー・ドライバー』で脚光を浴びた後、ドツボから這い上がり、いまやハリウッドの大女優となった、ジョディ・フォスターにそっくりなのだ。

 いまのソフィは「フランスのジョディ・フォスター」なんて形容が、失礼にあたるくらいに、女優である。『ジャンヌ・ダルク』のサンドリーヌ・ボネール(日本じゃ、人気ないなあ…)と並ぶ、押しも押されぬ、フランスの若手トップである。

 そんな彼女の存在感が満喫できる映画が『女優マルキーズ』だ。フランス映画というとグチャグチャした恋愛ものしか知らない君に、是非オススメのスペクタクルだ。

 舞台は18世紀フランス。地方都市で踊り子と娼婦まがいのことをしていた芸人マルキーズ(公爵夫人のこと)が、モリエール劇団に見いだされ、パリの宮廷にデビュー、ダンサーから"本格派女優"に脱皮を目指し、ラシーヌの劇団に移り、喝采の中で若くして劇的生涯を終えるまでを追った2時間の娯楽巨篇だ。

 脇を固めるフランス演劇界の大物もさることながら、圧巻はソフィの存在感。冒頭の扇情的ダンスで「わたしを見て!」という輝きを放ち、そこに雨が降ってくる場面で、完全に「女優ソフィ」に心を奪われてしまう。

 以後の人生の変遷を、ソフィは30歳(当時)という年令を肥やしにしたオシと、肉体的魅力で、画面から弾けそうにほとばしらせる。演技が下手な時代と、上達した時代を演じ分けるのって、かなり難しいのだが、ソフィはそれを巧みにやってのけてしまう。

  日本のタレントや女優って、30過ぎると行き詰まってオバサンになるか、"失楽園"路線行くかしかないと思わない? その点30歳過ぎて自伝まで出して、イイ女ぶりに磨きがかかっていくのって、すっごく素敵でカッコイイ。

 『女優マルキーズ』のソフィは、ほんと、いい女だ。その迫力を、是非スクリーンで御堪能あれ!

[集英社『週刊プレイボーイ』No.13,1998年3月24日号]

十二夜(1996、イギリス)
★★

  今年はUKイヤーということで、イギリス文化の伝統に基づいた映画が多く公開される。ただ、「イギリス映画が元気だ」と言っても、ロンドン最大の娯楽は演劇。夕方になるとミュージカルからシェイクスピアまで、劇場のまわりに人だかりができる。イギリスではシェイクスピアは「今」なのだ。「困ったときの古典頼み」ではない。人間普遍のドラマとして、生き続けているのだ。

 しかし、イギリス演劇では科白が占める比率が大きく、英語がわからないと面白みが半減してしまうのもの事実。

 そこでイギリス演劇の熱気を、英語がわからなくても肌で体験できるのが『十二夜』である。目下ロイヤル・シェイクスピア・シアターをしのぎ、英国でいちばん活気のある劇団、ナショナル・シアターの監督に昨年から就任した、トレヴァー・ナンの監督作品。

 双子の姉妹を軸にジェンダー・シャッフルが巻き起こす恋の喜劇を、ナンは劇場作品同様、弾むようなリズムで畳み込んでゆく。登場人物の純粋さが巻き起こす荒唐無稽が、浮つかずに流麗なカメラ・ワークと美しいロケ撮影で展開。劇場空間ではときに空回りとなるナンのクセが、ここでは効を奏し「楽しいシェイクスピア」を実現する。

 そして忘れてならない役者陣。ヘレナ・ボナム・カーターのボケたお姫さまぶり、イモジェン・スタッブズの男装の苦悩が笑える。しかし圧巻はナショナル・シアターきっての名優、ナイジェル・ホーソーンの勘違いスケベオヤジ(でも品があるんだ、この人。『英国万歳!』見た?)と、あのベン・キングズリーの道化ぶり。これを見るだけでも、入場料分、モトが取れるぞ。

  さあ、イギリス演劇の活気を、肩肘張らずに浴びて、楽しもうじゃないか!

[集英社『週刊プレイボーイ』No.14,1998年3月31日号]

エンド・オブ・バイオレンス(1997,米-仏-独)
★★1/2

  クラシックやジャズ・ファンが好きなブラインド・フォールド(演奏家当てクイズ)にならって、監督名を隠して『エンド・オブ・バイオレンス』を見せたら、正答率はかなり低いと思う。

 ビル・プルマン、ガヴリエル・バーン、アンディ・マクダウエルと、A級ともC級とも言えないキャスティング、新人中心のスタッフ、そしてシブみとシリアスさが混淆する、唸るオモシロサ……実はこれ、あの甘チャン監督、ヴィム・ヴェンダーズの最新作なのだ! そんなバカな!?

 映画史上ワースト・テンの有力候補『夢の涯てまでも』を頂点(?)に、『アメリカの友人』以降の劇映画で、ヴェンダーズは下降の一途を辿っていた。前作『リスボン物語』では、もう諦めた。

 ところがヴェンダーズは、これまでの最大の欠点、「映画を作ることはすばらしい」という、フランス仕込みの青臭さをやっと振り切り、グジグジしなくなったのだ。

 2時間強にわたりシネスコ画面に展開される世界は、かつてなくハードで靭い。過去の映画で冗談半分に(オマージュ? まさか)用いていた種々の映画技法が、スパークするように快楽をもたらす。濃い1本である。

 B級映画のプロデューサが誘拐事件に巻き込まれたことから、国家的陰謀に巻き込まれる。こういうと"悪"『夢の果てまでも』みたいだが、全編が異様にリアルなのだ。   ヴェンダーズがこれまで、薄々気づきながら、逃げていた「映像と人間の管理の問題」を、上質の娯楽映画として問題提起することに成功したのである。彼の作品としては久々にアクチュアルでヴィヴィッドな傑作だ。

 ヴェンダーズの記念すべきシネフィル卒業宣言? 体験する価値は充分ある。

[集英社『週刊プレイボーイ』No.12,1998年3月18日号]

ゲット・オン・ザ・バス(1996, アメリカ)
★★★

 あんまりカッコばかしつけてると、自分の弱さとか他人への思いやりを忘れてしまう。そんな毎日を送っていると、夢が見栄に化けてしまう。要はそれにいつ、気づくかだ。

 『ドゥ・ザ・ライト ・シング』から『クロッカーズ』までのスパイク・リー作品は、主人公の"甘え"が最大の弱点だった。表には「ノー!」を叫び、ヒップでホップを気取っていても、男尊女卑主義者のくせに、自分では何も決められない、ナサケナイ奴らばかりだった。

 95年に合衆国で起きた、ファラカーン師率いるアフロ・アメリカンの集会をテーマに、スパイク・リーが監督…と聞いただけで、腰が引けてしまう読者もいるだろう。だが『ゲット・オン・ザ・バス』は恥ずかしいくらいに、素直な映画だ。心が和み、勇気づけられる。

 題名の通りのロード・ムーヴィー。ワシントンDCの集会に向けて、ロスの"ブラザー"たちがバスで大陸を横断する。13人の乗客は爺さんあり、坊さんあり、ホモのカップルに保護監察中の息子を手錠につないだオヤジまで出てきて、みんなワケありっぽい。

 突っ張ったり、気張ったり、エラぶったりしてる表情の奥に、その「ワケ」が少しずつ明らかになってゆく。

 緻密であたたかい脚本と、舞台出身者中心の俳優のアンサンブル・プレイが見事。監督リーも、その力を借りて、お馴染み豪華な音楽(今回のタイトルはマイケル・ジャクソン)にのせ、「自分の情けなさを受け入れて、なんとかしよう!」という決意を、初めて作品に結実させた。

 そうだよ、それでいいんだよ。世の中確かにヒドイけど、一晩じゃ何も変わらないんだから。ぼちぼち、始めようぜ…こんなメッセージが聞こえてきそうな佳作。反スパイク派にも自信をもってお薦めだ。

[集英社『週刊プレイボーイ』No.11, 1998年3月10日号]

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