Office NESHA presents movie guide Mar./ Apr. 1999
目次
(この色の作品は★★★★以上獲得作品です)
レイティングは★★★★★が最高点。
詳細はこちらをご覧下さい
39
ファイアーライト
パゾリーニ映画祭
永遠と一日
フェアリー・テイル
海を見る/ホームドラマ/サマードレス
愛の悪魔 フランシス・ベイコンの歪んだ肖像
フレデリック・バックの世界(『木を植えた男』ほか)
バジル
39 (1999、日)
★★1/2
M氏、「酒鬼薔薇」事件と、心神喪失者の犯罪が騒がれ、『リング』シリーズや、精神異常を扱ったドラマ、映画、小説が大人気である。
しかし日本では"精神分析"が医学として、国家により明確に認定されておらず、分析医資格すら存在しないと知ってるか? 日本の精神科医は、多くが患者同様、不安定な精神を抱えているという意見すらある。
これだけ異常犯罪が社会問題になっているのに、肝心の「健常人」と「心神喪失者」の一線を引く、医学・法解釈の側が遅れを取っている。これが日本の現状なのだ。
そんないま、松竹が「全国松竹系公開」の最終作として放つ『39』は、「これからの松竹」に期待を抱かせる大傑作である。
元来スタイリストの森田芳光監督は、当節流行のサイコ・スリラーのタッチを駆使。鈴木京香、杉浦直樹、岸部一徳、樹木希林、江守徹ら、事件を裁く側の人々が誰も、それぞれ精神の不安を抱えている雰囲気を見事に作り上げる。
物語の中心となる惨たらしい殺人事件。その犯人(堤真一)は、犯行当時"心神喪失"状態にあったのか? でも謎自体は簡単に解けてしまう。
この映画の見所は、謎を解いてしまったヒロインたちが不安や疑問を抱きつつ、日本の司法制度、精神医学の曖昧な現状と、対決を余儀なくされてゆく後半にある。
ひとつひとつのモティーフが、人間関係が身近に迫ってくる。それを映画ならではの時間的、空間的緊張感と、胸を動かす映像に結実したスタッフの力量は、ハリウッドに比しても見劣りしない。
そして2時間13分という長尺を感じさせない森田の演出力。かつて『それから』など、"仏造って魂入れず"の見かけ倒しで、大テーマから逃げていた監督が、『39』では俳優たちを燃焼させ、生きる喜びと苦しみを深く描き出すことに成功した。
『リング2』を見に行って、『死国』にジンときたキミには、遥かに上回る興奮と感動を約束する。GW公開の新作では一番の推薦作。日本映画にこの言葉を捧げられることは、大きな喜びだ。
[集英社『週刊プレイボーイ』No.18,1999年5月4日号]
ファイアーライト(1997, 英-仏)
★★
映画に限らず、物語というものは、驚愕のどんでん返しが、楽しみのひとつ。それが後味の良さをともなっていれば、最高である。
オスカー話題作で席巻の予感のこのGW、意外な伏兵としてお薦めは『ファイアーライト』。ソフィー・マルソー主演の、歴史ラブロマンス。"ヨーロッパ好きのお姉さま方"の喜びそうな、愛の物語。
ところがこの映画、1本で5本分くらいの題材がぶちこまれた、幕の内弁当なのだ。 冒頭ソフィーが男に値踏みされるあたり「オッ、19世紀版援助交際か?」と身を乗り出し、お約束の豊満なヌードも満喫。その後「ありがちな母子物かあ」と、タカをくくって見ていると、ソフィーが家庭教師としてして男の家を逆襲、わがまま娘の教育に体を張るに至り、ヘレン・ケラーも真っ青のアクション映画になってしまう。
そしてまさか、まさかの展開で、「そんなの、ありかよ!」と驚く結末を迎える。でも「まあ、こういうのもいいんじゃない」という印象で、気持ち良く劇場を後にできる。
これもひとえに、ハスッぱ娘から、貴族の大人の女までを演じ切る、魅力的な肉体と芝居の才能を兼ね備えた、をソフィー・マルソーの存在あっての成功。
男は彼女の魅力によだれを垂らし、女はヒロインの運命に心を震わせる。年上のお姉様と見ると、面白いご意見がうかがえるかも。
[集英社『週刊プレイボーイ』No.18,1999年5月4日号]
パゾリーニ映画祭(1961/75, イタリア他)
★--★★★★★
人間が考えるのは、答が欲しいからだ。無関心なことについて考えはしない。
それが死活問題ならば、答を求める思いの強さに、判断力は鈍る。つまり、冷静さを失わずに、知性を働かせた結果、初めて答は出る。
問題はその答が、自分の求めていたものと、正反対だったときだ。それが死活問題であり、答が己れの希望と逆ならば、その人物は希望を捨てるしかない。
でもその答が「お前はもう生きていられない」という事実しか導き出さなかったら? 「生きていられない、しかし生きたい」――この矛盾が至る先は、残念ながら「殉教」か「発狂」のいずれかだ。人間の精神はそれ以外の帰結を見出せるほど、強くはない。
世界を不穏な空気が取り巻く1999年、日本で「パゾリーニ映画祭」が開催される意義は、この点で重大だ。
ピエル・パオロ・パゾリーニは詩人、小説家として、今なお全世界に名立たる存在である。その彼が、「自分は生きていけない」という答を手にした50年代末から、生きるためにしがみついたメディアが映画だった。
デビュー作『アッカットーネ』(★★★★★)と次の『マンマ・ローマ』(★★★★)でパゾリーニは殉教を描く。"汚れちまった悲しみ"の中、頑なに自分を貫いた結果、死んでゆく絶望の世界だ。
絶望した知性は究極の殉教として、キリストの生涯を選ぶ。聖書を忠実に映画化した『奇跡の丘』(★★★★★)は、イエスを人間として描くことに成功した唯一の作品である。
彼は、絶望的社会と個の関係を古典や寓話の世界に求めた。『アポロンの地獄』(★★★★★1/2)『王女メディア』(★★★★)の不可能を前に、生きたいと叫ぶ異様な迫力。『豚小屋』(★★1/2)のシニカルな皮肉に裏にく「人間を信じたいのに信じられない」ジレンマ。
遺作『サロ共和国、あるいはソドムの120日(邦題『ソドムの市』、成人指定)』(日本公開版★、オリジナル版★★1/2)は、誠実であり続けようとした魂が行き着いた冴々とした「狂気」が、見るものを震撼させる。
21世紀に人間はどう生きるか? このテーマに少しでも関心を抱くならば、パゾリーニの足跡を追わなければならない。これは全人類に課せられた命題なのだ。
[集英社『週刊プレイボーイ』No.16,1999年4月20日号]
永遠と一日(1998,ギリシャ-仏-伊)
★
オスカーに比べて地味な印象のカンヌ映画祭。だが80年代末から『パルプ・フィクション』などアメリカ勢にグランプリを出しまくり、良識的映画人の不評を買っていた。
その"良識的"映画人の旗印的存在が、テオ・アンゲロプロス監督。90年代カンヌの常連で、最新作『永遠と一日』はグランプリに輝いた。
この監督の最盛期は70年代。軍事独裁から民主化前後のギリシャの状況を撃ち、政治性と人間洞察を大胆な映像で表現した衝撃作を連発した。
ところが最近の作品は、どれも代わり映えがしない。自由は手に入ったが、左翼もダメになった混迷の時代に、理想を失ったオヤジや無垢な子供が旅をする映画ばかり。
タイムリーな政治・社会状況をモティーフに取り込みつつ、絶対深く突っ込まない。代わりに甘い音楽と、霧がたちこめた風景に長回しの映像と、"詩的な"雰囲気だけには事欠かない。
要するに今のアンゲロプロス映画は「真面目なインテリ向けの寅さん」だ。ウディ・アレンのように、同じテーマを自慰のようにいじるだけ。新しい発見もない代わりに、期待を裏切らない。
マンネリも個性になれば芸術家。さすがに映像の美しさと語り口の個性は見事。一度はスクリーンで体験の価値あり。だから筆者も、アンゲロプロス未体験者には『永遠と一日』は必見、と勧めざるを得ないのだ。ニクイものである。
アンゲロプロスの真の凄さを知るには次の2本。『旅芸人の記録』(★★★★★)はまだ軍事政権のギリシャ国内で撮影を敢行、当時進行形だった反体制運動を真正面から取り上げ、20世紀のギリシャ史が展開する大作。『アレクサンダー大王』(★★★★★)は、政治と人間の関係と構造、そして限界まで描き切った最高傑作。共に廃版ビデオやLDを買ってでも見る価値あり。ちなみに最近のアンゲロプロス作品が世界一ヒットする国は、なんと日本だそうだ。
[集英社『週刊プレイボーイ』No.15,1999年4月13日号]
フェアリー・テイル(1998,イギリス)
★★1/2
イギリスといえばピーターパンを産んだ国だが、その正体は妖精である。
スピルバーグは「ピーターパン」をこよなく愛し、SF『未知との遭遇』を作った。宇宙母船が飛来するラストでは、胸が熱くなた。(『フック』は失敗作だったが)
それ以来スピルバーグには、「大人になれない」「甘い」というレッテルがついて回ったものだが、"妖精"の存在を信じるのは、そんなにガキなのだろうか?
本家イギリスでは、今世紀初頭に、妖精の有無が裁判ざたにまでなったのだ。この実話に基づき作られた映画が『フェアリー・テイル』。「大人になる勇気を持った子供」に捧げられた讃歌である。
2人の少女が妖精を"撮影した"写真をめぐって、ゴシップの域を越え、社会問題にまで発展する。あのコナン・ドイル(ピーター・オトゥール)や、伝説の奇術師フーディーニ(ハーヴェイ・カイテル)など、実在の有名人が「妖精は実在するか?」「なぜ妖精は実在しなければならないか」と大真面目に議論を繰り広げる。
だがこれはコメディではない。産業革命期の英国の苛酷な現実が、「ピーターパン」や妖精を信じる心を産み出したという、歴史的背景までキッチリと描き込んでゆく。
ファンタジックな映像から「"妖精"に存在されると、困る社会とは、大人とは?」という本質にまで、静かに話を展開していくあたり、希有な巧さを発揮した映画だ。
そして「大人になること」と「妖精を信じること」を両立させる術を学ぶ、ふたりの少女。ラストでは『未知との遭遇』以来の僥倖の瞬間が待っている。
今年上半期公開のイギリス映画では、ベスト作である。偏見抜きで見てほしい。
[集英社『週刊プレイボーイ』No.14,1999年4月6日号]
サマー・ドレス/海を見る(1997,フランス)/ホームドラマ(1998,フランス)
★★1/2--★★★★
個人的好悪を越えて、無視できない才能に出会うことは、今日の映画状況では稀である。
90年代の新人監督は衝撃的作品を発表しても、後が続かなかったり、マンネリに陥るが、大半だった。
この春公開されるフランソワ・オゾン監督の3本を見て、久しぶりに映画研究者の血が騒いだ。彼は間違いなく、映画という表現手段と格闘しつつ、己のアイデンティティの問題と、作品の社会性を獲得しようとしている。しかも、その意気込みが空回りしていない。
これでこそ、映画なのだ。
まずは50分足らずの中編『海を見る』(★★★★)を見てほしい。ファースト・ショットから、映像と音響にみなぎる緊張感に引きつけられる。
南フランスの離島で、赤子と夫の帰りを待つイギリス女、そこにやってくるバック・パッカーの娘…手垢にまみれた図式的設定が、CGもデジタル音響もなく展開される。
俳優のひとつひとつの所作や表情。寂しい家に射し込む光。遠くに響くさざなみの音。すべての要因が渾然となって、人が現代を生きる遣る瀬なさを、見るものの心から、溜息とともに引き出してくる。
オゾンの映画は観客のイマジネーションに訴えかけてくる。受け身で映画を享受しようとしている人間を、挑発でも刺激でもない方法で、自然と作品に巻き込み、言葉にならない意識下で "考えさせる"力を持っている。要約すれば、映画でしかできない「対話」を観客に求めてくるのだ。
これが偶然でないことは、同時公開の短篇『サマードレス』(★★1/2)、長編『ホームドラマ』(★★)で証明されている。オゾンは期待できるシネアストだ。
言葉を奪われた現在に、格闘すべき映画の登場。映画の未来を知るためにも、必見の才能である。
[集英社『週刊プレイボーイ』No.14,1999年4月6日号]
愛の悪魔 フランシス・ベイコンの歪んだ肖像(1998,英-独-日)
★★
君が貧しくて、盗みに入ったとする。そこが同性愛者のオッサンの家で、幽閉されてしまったら? オッサンの正体が知る人ぞ知る前衛画家で、金をエサに関係を迫られたら? しかもそれが、精力絶倫だったら……?
『愛の悪魔 フランシス・ベイコンの歪んだ肖像』は、まさにこういう映画なのだ。病的な曲線と、現実離れした色遣いの、独特なベイコンの具象絵画は、名作『ラスト・タンゴ・イン・パリ』のメイン・タイトルにも使われた。
彼の「爛れた」という形容がふさわしい私生活を、暗ぁく重たく描き、見ていてズンと胃にもたれる。
ベイコンを演じるのは、英国演劇界の重鎮、デレク・ジャコビ。「この人、ほんとにその気があるんじゃないか」と、見てて怖くなるようなハマリ方。「同性愛者にはナルシストが多い」とはよく聞くが、鏡に向かって化粧するのと同じ表情で、カンバスに絵の具を塗りたくるあたりは、背筋が寒くなるものがある。
しかもベイコンのオッサン、己の欲望のためには手段を選ばない。ヤクもSEXもやりまくり、人間を平気で嘲笑し、捨てられた男が自殺しても、それを創作のエネルギーにしてしまう…個人的には"生涯出会いたくない人間"ナンバー・ワンに挙げたいような、トンでもないオヤジだ。
監督は故デレク・ジャーマンの弟子、ジョン・メイブリー。師匠のような遊び心がない分、「出口なし」の男色地獄が、閉塞感たっぷり、体に粘り着くように描かれる。
ここまでくれば、ヘタなスプラッタ・ムーヴィーより数倍怖い。ジェイソンよりイッちゃってるシリアル・ファッカー(無差別SEXオヤジ)、ベイコンを見ると、怖くて夜も眠れない!?
[集英社『週刊プレイボーイ』No.13,1999年3月30日号]
フレデリック・バックの世界[『木を植えた男』(1986,カナダ)ほか]
★★--★★★★1/2
並木座、大井武蔵野館の閉館と、名画座の衰退と共に、スクリーンで映画を見る機会が減少している。
そんな中、昨年秋の開館以来、例日満員札止めのミニシアターが現れた。「ラピュタ阿佐ヶ谷」という定員50名の劇場。場所を捜すのも一苦労だが(私は1時間迷った)、そんな立地条件を跳ね飛ばす大盛況である。
ウリは短編アニメ映画。こけら落としにロシアの巨匠、ユーリ・ノルシュテイン(『霧につつまれたハリネズミ』と『話の話』は必見!)の回顧上映を行い、入りきれない観客のために当日の夜に急遽追加上映をしたという。
現在上映中は、ノルシュテインと並ぶ、現代アニメ界最大の巨匠、「フレデリック・バックの世界」だ。
最大の見物は『木を植えた男』(★★★★1/2)。高畑勲(『火垂るの墓』の監督)訳の絵本が日本でもベストセラーとなったが、あれはアニメ映画の絵本化だったのだ。
年月を経て荒れ地と化した山中でただひとり、緑を回復すべく黙々と木を植え続ける男の姿を、旅人の目を通じて描く、30分足らずの映画。
エア・ブラシを使い、彩色された木炭スケッチ画のような世界を繰り広げる映像に圧倒され、耳を澄ましている内に、生命の意義が自然と体じゅうに広がってゆく。ただただ圧倒され、体中に震えが起こる。製作後12年を経たいま、希望を失っている人々に「立ち上がろう、生きよう」という思いを起こさせてくれる。間違いなく、映画史に永遠に名を刻み込む作品だ。
他ではパステル画のかわいさでひとつの可愛い椅子の生涯を描く『クラック』(★★★★)も必見。いま一番熱い映画館で、小さくも偉大な名作を!
[集英社『週刊プレイボーイ』No.12,1999年3月23日号]
バジル(1997,イギリス)
★★
以前アメリカ人の監督に「日本では戦時中、なぜ山伏が弾圧されていたんだ?」と聞かれ、驚くとともに答に窮したことがある。
キミたちの多くが能楽のことなんか知らないように、ある国の文化には外国人の方が、深い知識と愛情を抱いてることが少なくない。
イギリス映画『バジル』の監督ラダ・バラドワジはマドラス生まれ、これがデビュー作となるインド人。製作もかねて主演するのは、『ブロークン・アロー』のクリスチャン・スレイターだ。
出来上がった作品は、巷で評判のマサラ・ムービーとは類似点皆無。むしろ「英国人より英国らしい」、格調高く、こわあいお話である。
冒頭の廃屋となった貴族の屋敷のショットで、「あ、これこれ!」と膝を打つ。イギリスといえば作家ポーに代表される、伝奇ロマンの宝庫。これは「月長石」の推理作家、ウィルキー・コリンズの長編小説の映画化なのだ。
つぶさに描写される貴族の生活、階級差が生み出す陰部がうごめきだすような展開と、日本人がイギリスに求める雰囲気が、全編を濃厚に漂っている。最近のホラーやサイコ・スリラーにはない、「上品でゾクゾクする怖さ」が味わえる。「ロンドン幽霊屋敷ツアー」なんてのに目がないキミは、胸躍るだろう。
共演の俳優陣も買い。演劇畑の重鎮デレク・ジャコビ、『ジョー・ブラックをよろしく』とは打って変わり、裏表のある女を演じて魅力的なクレア・フォラーニ、『シン・レッド・ライン』の二等兵で注目のジャレッド・レトなど、通好みと旬の新人を両方押えた、ニクイ配役である。
外国人だから作れた「英国映画」。偽物の方が本物より手応えがある、という好例なのだ。
[集英社『週刊プレイボーイ』No.11,1999年3月16日号]
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