Office NESHA presents movie guide
May/ Jun. 1998
遙かなる帰郷(1997,伊-米-仏)
★★★★
フランクル、ツェランと並び、ナチ以降のユダヤ知識人として、最も重要な地位を占める、プリモ・レーヴィ。
アウシュヴィッツの収容所で一年近くを過ごし、ナチの敗北まで奇跡的に生き延びた。イタリア帰国後、収容所体験と人間性に関する著作を意欲的に発表。強制収容所や大量虐殺を繰り返さないために、活動を続けながら、87年に自ら命を絶った。
彼のアウシュヴィッツ解放からイタリアのトリーノに帰るまでを手記として構成した著作『休戦』。これを現代最大の巨匠監督、フランチェスコ・ロージが『遥かなる帰郷』として映画化した。
いわば"その後の『シンドラーのリスト』"と思えばいい。レーヴィ本人(ジョン・タトゥーロ)が、人を虫ケラ以下に扱い、殺戮する収容所から、突然自由を与えられ、連合軍にたらい回しにされつつ、ポーランド南部から黒海沿岸経由で、イタリアへと向かう足跡を追う。
かつてナチの占領下にあった地域は、疲れて、貧しい。ひとかけらのパンを求めて奔走する人々、混乱に乗じてひとヤマ当てようと目論む輩、それが人間だ。強制収容所で大量虐殺を行なったのも、人間であったように。
映画はレーヴィの旅路を淡々と描く。その末に見えてくるのは、回復された生きる歓び、そして収容所の外の「日常」が、いつ「生き地獄」に転化するか知れないという不安、怖れとおののきである。それがラストの一瞬に凝縮される衝撃は、映画史に残る。
何者を声高に告発せずに、巨匠ロージは映画『ソフィーの選択』や『ショアー』が失敗した、今改めて近づくファシズムの、人間の危機を描破した。今年上半期の他作を圧する最高傑作。すべての現代人必見の名作である。
[集英社『週刊プレイボーイ』No.23,1998年6月9日号]
普通じゃない(1997,アメリカ)
★★
『トレインスポッテイング』を放った脚本家ジョン・ホッジ、監督ダニー・ボイルらスタッフ陣がアメリカ進出。今回は優等生的エエカッコシイをかなぐり捨てて、「うえぇ〜ん、アメリカで映画作れて、ウレシイよおん」的ノリで、全編ハシャギまくりハジケ飛んだ、悪ノリコメディだ。
『普通じゃない』―原題"A Life Less Ordinary"は「ほとんどビョーキ(懐かしいフレーズ…)の人生」という意味。その名の通り、ゴクラク大バカ映画である。
主演のユアン・マクレガーは、ビル清掃夫なのに、なんといつもGucci着てるのだ。しかもクビになって、ヴェルサーチご愛用の社長令嬢(注目のキャメロン・ディアス!)にそそのかされて、彼女を誘拐したはいいが、脅迫電話もかけられない、銃も使えない、ぜんぶ女に任せっきり……アア情けな!
そこに天界(能天気な描写がまたエグイ!)から「愛の少なくなった地上を癒すため」送り込まれるふたりの天使、誘拐事件の捕物が絡み合って、全編シッチャカメッチャカの空騒ぎだ!!
最近の娯楽映画は薄っぺらな屁理屈や愛やヒューマニズムを振りまわし、アート系と称する奴らは、薄汚い身勝手な欲望を垂れ流すばかり…とお嘆きのあなた、この恥知らずコメディを見なさいっ!
ユアンとキャメロンのカラオケ・ダンス・シーンのハズシぶりにノケゾれっ。女天使を演じるホリー・ハンターの怪演にウズけ! 「オシャレにこだわると、スッゲエ、ダサくなる」という逆説をテコに、バカに徹したアホアホボケボケぶりに、椅子の上で身をよじらせろっ!!
合言葉は「明るく無思想無節操」。今週は"!"の嵐だ。さあ、みんなでバカになって暑い夏を、クライ世間を笑い飛ばせ!!
[集英社『週刊プレイボーイ』No.27,1998年7月7日号]
ボスニア(1997,ユーゴスラヴィア-仏)
★★★
今ごろになってコソボ自治州独立問題が国際世論を騒がせ、またもキナ臭さを増している旧ユーゴスラヴィア。ボスニア・ヘルツェゴヴィナの平和維持軍、IFORもまだ撤退していないというのに。
民族紛争だなんだと、複雑視されているが、旧ユーゴ紛争の本質は、経済的利益の奪い合いだ。この現実を庶民の眼から描いた『ボスニア』は、紛争への関心がなくても一見の価値がある。
ボスニア・ヘルツェゴヴィナの田舎で育った、幼なじみのセルビア人とムスリム人。ふたりは社会主義経済の統制がゆるめられた頃、共同で自動車修理工場を旗揚げする。別の共和国間の紛争のニュースが報道されても、自分たちには無縁に思える。
そんな友情が、社会主義時代の既得権を失うまいとする一部の村人の手で、汚らしくつぶされてゆく。ふたりは敵味方に分かれて、銃火を交えることになる。お互い「相手が自分を裏切った」と、誤解したままで。
ボスニア・ヘルツェゴヴィナの戦争を戦ったのは、現地の住民だけではない。映画は洞穴のなかに篭城したセルビア小隊を追い、様々な経緯でこの戦争に身を投じた人間、巻き込まれた人間の"偶然"を見せてゆく。
これが長編第二作となるスルジャン・ドラゴエヴィッチ監督はセルビア人。しかし作品をプロパガンダに落としめることなく、悪人も善人も一線上に並べ、無意味な戦争で死んでゆく様子を痛ましく提示する。そして、何ものかに仕組まれた憎しみは、決して簡単に消えることはない、と訴えるラストは、苦いユーモアと監督の真摯な洞察を感じさせる。
戦争の二文字が、他人事に見えなくなる。旧ユーゴものでも出色の作品である。
[集英社『週刊プレイボーイ』No.25,1998年6月23日号]
キングス・オブ・クレズマー(1996,独-米)
★★★
20世紀のアメリカン・ポップ・ミュージックのルーツをたどると、3つの移民音楽に源流を遡ることができる。アフリカ系にアイルランド系、そしてユダヤ系である。
最近、日本でもカントリーやR&Bの源流となったアイリッシュ・トラッドの再評価が進んでいるが、ユダヤ系イディッシュ音楽には目を向けられることが少ない。
そこで『キングス・オブ・クレズマー』。目ならぬ、耳から鱗が落ちるような映画である。
ナチ以前から、ヨーロッパでユダヤ人はマイノリティとして迫害を受けていた。そのなかからドイツ、東欧と移民を続けたイディッシュ民族が生まれる。この民族の生活を描いたのが『屋根の上のバイオリン弾き』で、ミュージカル・ナンバーとの因縁も浅くないとわかるだろう。
イディッシュの合衆国移民が中心となり、伝統の音楽を発展させたのがクレズマー・ミュージックなのだ。
この映画は、正統のクレズマー音楽を現代に継承している唯一の団体、ともいわれるエプスタイン兄弟の記録映画である。
長男が80歳を超える"お爺さんバンド"の演奏は哀感とダンサブルなリズムを併せ持つ独自のテイスト。まさにジャズの、ひとつの原型である。
今の聴衆にも懐かしさと元気を与えてくれる。それだけではなく音楽好きには発見と衝撃の連続だ。
ジャズ・ヴォーカルになぜヴァースがあるのか、なぜグラッペリのようなヴァイオリン・ジャズが誕生したのか、それとカントリーとの共通点は…などなど、ポピュラー音楽に抱いている先入観や疑問が一気に解消されてしまう。
見た帰りにCD店に走ること必定、密度の濃い貴重な一編だ。
[集英社『週刊プレイボーイ』No.24, 1998年6月16日号]
オスカーとルシンダ(1997,豪-米)
★★
開巻いきなり、ジャングルのなかをガラス製の館が山越えしてゆくシーンに「なんじゃこりゃ?」
オーストラリア映画『オスカーとルシンダ』は、この「なんじゃこりゃ?」感が全編を貫く、ハミダシ者のラブ・ストーリーである。
英国で自分の将来を籤引きで決めて、生涯をイギリス国教会の牧師として生きる決心をしたオスカー。貧乏な学生時代、思わぬ才能が開花。競馬、ブリッジと百発百中の天才ギャンブラーだったのだ。それがもとで、牧師として信用を失う。当人は純粋なのかバカなのか、「金を稼いで神に献金して何が悪い」と、周囲の反応が全然理解できない。
その頃、当時英国植民地だったオーストラリアから、ひとりの娘がロンドンに向かっていた。農場に生まれ育ったルシンダは、両親の遺言で、膨大な遺産と共にひとりイギリスに住むことになる。彼女の心に残された夢はひとつ、こどもの頃誕生日に送られた、美しいガラス細工。ペンチでひねると砕けてしまったガラス細工……女だてらにガラス工場を経営した彼女が発見した趣味はギャンブル。
ふたりがギャンブルをきっかけに知り合い、「ガラス細工のような」夢を追い続ける。当人たちが大真面目なだけに滑稽に見える、純粋とバカ、すれすれの物語である。
オスカー役は、いまナイーヴ系プッツンを演らせたら右に出るものはいない、レイフ・ファインズ! それでもゲテ物になっていないのは、ルシンダ役の新人ケイト・ブランシェットの魅力と、オーソドックスな語り口に終始しながらも飽きさせない、女性監督ギリアン・アームストロング、円熟の力量だろう。
ストレートなのに摩訶不思議な恋の年代記は、デートには持って来い。見て損はしない異色作だ。
[集英社『週刊プレイボーイ』No.26,1998年6月30日号]
反撥(1967, イギリス)
★★★★★
60年代後半から70年代にかけて、欧米を股にかけサスペンス、ホラーの傑作陣を連打した鬼才、ロマン・ポランスキ。『ローズマリーの赤ちゃん』と並ぶ彼の最高傑作、『反撥』が、三十年近くを経て、初のリバイバル公開だ。
主演はカトリーヌ・ドヌーヴ。まだ若くかわいかった彼女が、60年代のポップなロンドンを舞台に、モノクロの画面狭しと逃げまわる。その様だけでも一見の価値がある。 流行の最先端のヘア・ドレッサー役のドヌーヴは何から逃げまわるか? それは自分自身の妄想からである。
女という性は、体の構造上、常にレイプされる危険に生きている。そして自然の役割分担上、不本意な妊娠をする恐怖に生きている。
少女が女になるとき、そこに男という壁が登場する。自分をセックスの対象として目でなめまわし、それまでの自分とはまったく異なる何者かを、自分の肉体のなかから、引きずり出される、恐怖。
文で書くと何とも抽象的な、この「女であること」の不安が、『反撥』のなかでは見事にイメージ化。女ではない男には、到底想像もできないような、道を歩く恐怖、一人暮らしの部屋に眠る恐怖、それらが炸裂するかのように、作品全体を揺るがせる。
そしてジャズ・ドラムの神様、チコ・ハミルトンの音楽と共に、洗練されたセンスで全編が展開。ミステリーでもないのに、見おわった後、異様な興奮と疲弊感が残る。
フェミニズムはおろかウーマン・リブという言葉すら一般的でなかった時代に、男のポランスキが女を描き切った世界は、サイコもの全盛のいまなお、新しい輝きを増している。
ひとりで見に行くように。そして帰りにトイレで、鏡に映った獣の男の顔に恐れおののき、生きるがよい。
[集英社『週刊プレイボーイ』No.21,1998年5月26日号]
絶体×絶命(1997,アメリカ)
★★
60年代末フランスが産んだカルト・ムーヴィー『モア』のバルベ・シュレデール監督が、アントニオーニ作品の名撮影監督、ルチアーノ・トヴォリと組み、ハリウッドで映画を作る……
「どんな映画になるんだろ」と心ときめかせたあなたは、大ボケ映画ファン。シュレデールは近年、「バーベット・シュローダー」としてアメリカで、『運命の逆転』『ルームメイト』など、後味悪いサスペンスを連発、ヒットメイカーになっている。トヴォリに限らず、ヨーロッパの名スタッフは、最近じゃみんなアメリカで稼いでるのだ。
新作『絶体×絶命』はアンディ・ガルシア扮する刑事フランクが息子の命を救うため、IQ150の凶悪犯、マッケイブを追う、普通のアメリカン・アクションである。
が、随所にひねりが効いている。フランクの息子は白血病で、命を救うには、刑務所収監中のマッケイブの骨髄を移植するしか道はない。
マッケイブはフランクの願い通り移植に応じるが、病院に連れ込まれるや、まんまと脱走。死人の骨髄は移植に役立たない、ということで、フランクは同僚の刑事たちとマッケイブの両方の裏をかき、なんとか生け捕りにしようと奔走する。
シュローダーの他作品同様、アメリカの大都市が醸し出す雰囲気が、作品の隠れた見所。今回はサン・フランシスコの大病院を、監獄のように見せてしまうセンスが光る。
意外な収穫は、マッケイブ役のマイケル・キートン。イッちゃってる眼と不気味な笑顔で、新境地開拓。この人、悪役の方が合ってるかも。
他にもカー・チェイスあり、大爆発ありと、確実に楽しめる、超B級娯楽作品。無視するには惜しい映画だ。
[集英社『週刊プレイボーイ』No.22,1998年6月2日号]
マッドシティ(1997,アメリカ)
★★
今や日本も米国も、生活の中心はテレビ。家族のなかでもひとり一台は常識に近く、音楽でも何でも、トレンドはテレビからしか生まれない。
ただテレビの報道を事実だと信じ込んでいる人が多いのにはびっくりする。長野サリン事件の経緯を忘れたか? テレビのスクープ合戦は、冤罪まで引き起こすんだぞ。
テレビ報道は、憶測を大いに含んだ事実の一側面にすぎない。それを鵜呑みにして、善悪を決めつけるのは、極めて危険である。
この危険が恐怖と悲劇を巻き起こす映画『マッド・シティ』。校外授業の子供たちで賑わう博物館。そこの守衛をクビになった男(ジョン・トラボルタ)が、「館長と話がしたい」とやってくる。彼の銃が偶然暴発し、事件は傷を広げてゆく。
館内には地方局にトバされた、往年の辣腕テレビ・レポーター(ダスティン・ホフマン)が、取材で居合わせた。自分のキャリア回復のため、彼はこの事件を独占スクープ、全米にリアル・タイムで報道しはじめる。
博物館内部と、報道陣や警察が取り囲む屋外の対比が生み出す緊張感は、往年の名作『狼たちの午後』を彷彿とさせる。ホントは小心で、子供にやさしく少し頭の悪いだけの犯人を、トラボルタが好演。ホフマンとの"クドい顔"コンビが、不思議なユーモアを醸し出す。
最大の見所は、視聴率競争のために、犯人が自分の知らないところで、いい人から異常人格者に仕立て上げられてゆく過程の邪悪さだ。そこは監督の社会派サスペンスの巨匠コスタ・ガヴラスの面目躍如。手に汗にぎる娯楽映画にとして楽しませながら「真の悪はテレビの作り手と視聴者だ」とストレートに訴える。
テレビの前に座ってるだけのGWを送ったキミは、これで性根を叩き直すがよい。
[集英社『週刊プレイボーイ』No.20/21,1998年5月12日-19日合併号]
靴みがき(1946,イタリア)/鉄道員(1956,イタリア)
★★★★★
ガス・ヴァン・サントのストリート・チルドレンへの執着、エイベル・フェラーラの家族と犯罪への仮借ない切り込み、いずれもウォーホールがポール・モリセーと共同監督したモニュメンタルな作品"Flesh"(日本未公開)の影響下にある。その"Flesh"のルーツとなるのが、当時ニュー・ヨークを頻繁に訪れていた、ピエル・パオロ・パゾリーニなのだ。『マイ・プライベート・アイダホ』でリヴァー・フェニックスが母親を探して、ローマに向かうのは、明らかにパゾリーニの映画作家として初期の名作『アッカットーネ』『マンマ・ローマ』へのオマージュである。
この2本が1999年、遂に商業劇場で初公開されるという。それに備えて、映画監督パゾリーニを生み出した、イタリアン・ネオ・レアリスモの作品がリヴァイヴァルされるのは、絶好の機会である。
なかでも不滅の名作『自転車泥棒』の陰で見る機会の少なかった、デシーカの『靴みがき』が35ミリで見られるのがうれしい。戦災孤児の夢がつぶされてゆく様を、美しくも暖かく、そして悲しく描く世界は、『グッド・ウィル・ハンティング』よりも、今日的だとすら言える。誰もが一度はテーマ音楽を耳にしているだろう『鉄道員』も、絶対スクリーンで見たい。一見お涙頂戴の通俗が、古典として輝きを失っていないことに愕然としてほしい。適うことなら、これをきっかけに、アントニオーニのネガである、60年代のジェルミの風刺劇、『誘惑されて捨てられて』『蜜がいっぱい』『ヨーロッパ式クライマックス』等をリバイバルしてくれないものか。
[報雅堂『Composite』1998年5月25日号]
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