目次
(この色の作品は★★★★以上獲得作品です)
レイティングは★★★★★が最高点。
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フレンチ・カンカン
サラバンド--ヨー・ヨー・マ・インスパイアド・バイ・バッハ
クアトロ・ディアス
RONIN
ハイ・アート
カラー・オブ・ハート
この疑問を払うために「大スクリーンでしか味わえない、スペクタクル」という表現がよく使われる。
この「スペクタクル」という言葉、英語だと「大がかりな見世物」という意味だが、フランス語になると、単に「実演」を指す。劇場もサーカスも、みな「スペクタクル」である。
『フレンチ・カンカン』は、フランス語の原義にふさわしい、「スクリーンで体験するスペクタクル」だ。
55年製作の旧作だが、サーカスとミュージカルを足して、運動会をスパイスに効かせたような快感。IMAXより遥かに興奮する、体感ムーヴィーである。
話自体はフランス版サクセス・ストーリー。ムーラン・ルージュという見世物小屋を作る、興行主と芸人たちのバトル。単純明快、予定調和のなかですべて納まる。
こんな代物が、製作30年後にわざわざ復元完全版が作られ、日本では今回ニュープリントで堂々公開。映画史上も重要な作品とされている。
それは『フレンチ・カンカン』が、世界中の人々の心を、時代を越えて、躍らせ続けてきたからだ。
この映画の快感は、フィギュア・スケートや新体操を見る楽しみに似ている。特に何を表現しているわけでもないのに、いつの間にか目が離せなくなり、固唾を呑んで見つめ続ける、そんな緊張。
あるいは桜の花吹雪を見る感動に似ている。ただの花びらが風と共に全身を包むとき、ただ「花がきれいだな」と感じるのとは別な、心の底から揺さ振られるような震えに襲われる。ラストのフレンチ・カンカン・ダンスが繰り広げられる光景に、おぼえる奮い立ちは、まさにこれだ。
1時間44分、映画館の暗闇の中で、目の前に展開するスペクタクルを見物せよ。「なぜ映画館なのか」という疑問への答が、悦びとともに、全身に満ち溢れてくる。
チャップリンと並ぶ最大の巨匠、ジャン・ルノワールが放つ、永遠の疾風怒濤。これぞ「生きた映画」だ。
(6月5日より東京シネ・ラ・セットにてモーニング&レイト公開)
[集英社『週刊プレイボーイ』No.25,1999年6月23日号]
サラバンド--ヨー・ヨー・マ・インスパイアド・バイ・バッハ
(1997、カナダ-フランス-ドイツ-オーストリア)
★★★★
「死ぬということはモーツァルトが聞けなくなることである」とは、相対性理論の発見者、アインシュタインの言葉である。
クラシックに限らず、良い音楽を聞くと死を想起する。素晴らしいライヴに酔うとき、感動的アルバムに耳を傾けているとき、「あと少しで終わりだな」と感じながら「このまま時が止まってほしい!」と思ったことはないか?
しかし、音楽は終わってしまう。その終わりが「死」の擬似体験なのではないか。
『サラバンド』はチェリスト、ヨー・ヨー・マ(TVのCMでピアソラを弾いて有名になった)の演奏する、バッハの無伴奏チェロ組曲第4番を題材とした、57分のビデオ作品。すでにLDなどでリリースされているが、是非劇場のスクリーンで見てほしい。
というのもこの作品、監督が現代カナダ映画界最大の鬼才、アトム・エゴヤンなのだ。わが国では冷遇されたマスターピース『エキゾチカ』の監督は、この一篇を映画同様の作法で紡ぎ出した。
一見、何の関係もない人物たちが、どこかでつながっている。エゴヤンお得意の話法で、今回人々の橋渡しとなるのが音楽である。
どんなに素晴らしい音楽も、人を感動させるばかりではない。音楽ゆえに悩む人、音楽を利用する人、知識と感動を混同する人、様々である。
登場人物は誰もが自分で無意識の内に、他人を傷つけたり、傷つけられたりする。そして人生の大切な瞬間が不意に訪れ、選択を迫られ、ひとり立ち止まり、ためらう。この無意識との対話こそ、エゴヤンの真骨頂なのだ。
人間の音楽との関わりが、実人生にまで食い込んでくる過程。皮膚感覚に迫ってくるような映像。計算し尽くされた音響。他では味わえない、独特の感覚だ。
過去のエゴヤン作品のような、謎解き的面白みはないかと思いきや、ラストにアッと驚く音楽の本質が画面に登場。その重さに言葉を失う。
やはりこれは、劇場で体験すべき作品だ。そもそも映画というのも、ビデオと違って、巻き戻しのきかない、死の芸術かもしれない。
(6月26日より、アップリンク・ファクトリーにて、『ヨーヨー・マ インスパイアド・バイ・バッハ』シリーズ内でロードショー)
[集英社『週刊プレイボーイ』No.26,1999年6月30日号]
クアトロ・ディアス(1997、ブラジル-アメリカ)
★★★
少し前、チェ・ゲバラのプリントTシャツが流行したが、チェがどんな人か知ってて着ていたんだろうか。彼とペルーの日本大使館占拠事件のつながりは……?
その答は『クアトロ・ディアス』に潜んでいる。69年ブラジルで実際に起きた、左翼ゲリラによる合衆国大使誘拐事件の映画化である。学園紛争や左翼運動が、いまも身に纏っている幻想を振り払う、快挙を成し遂げた作品だ。
チェの思想に共感し理想に燃える大学生たちは純粋だが、思考が幼く単純。現実とのギャップを理解できず、誘拐事件に至るプロセスは、オウム真理教の活動を思わせる。
学生たちを利用して、行動へと誘導する既成左翼セクトの幹部、活動を暴力で弾圧する軍と警察、政治に無関心に日常を送る普通の人々。それぞれの立場が等価に描かれる。
そんな状況下、外交官誘拐という大事件が、拍子抜けするほど楽に成功。ゲリラのアジトも呆気なく発覚する。
すべて驚くほど簡単にことが運ぶのに、事件は解決を見ない。ゲリラ、警察の両サイドが抱える焦りは、世紀末の今、世界が直面している政治・外交の袋小路の原点なのだ。
そしてアラン・アーキン演じる合衆国大使は、囚われの身でも毅然とした態度で、ゲリラたちに接する。その姿はペルー事件当時の青木大使を彷彿とさせる。
サッカーの国、ブラジルの、南米の苦悩が身近に感じられる好編である。
以後、非合法化された共産党や学生たちによる「解放運動」が盛んになるが、軍部と警察に鎮圧される。そんな袋小路で起こったのが、『クアトロ・ディアス』の描く誘拐事件。
政府は対米関係に配慮、ゲリラの要求を呑み政治犯を釈放したため、以後南米では類似の事件が続発。ペルーの日本大使館占拠事件も、ルーツをたどると、この事件に行き着く。
(6月5日より7月9日まで、東京BOX東中野にて公開)
[集英社『週刊プレイボーイ』No.24,1999年6月16日号]
RONIN(1998、アメリカ)
★★
傑作アクション見るなら1月か6月、というのが、ここ数年の常識。今年も6月に向けて『ペイバック』など、すぐれものが待機している。
今回のお薦めは『RONIN』。冷戦崩壊後の諜報部員を、江戸時代の浪人武士に見立てた話。そう聞いて『SF/ソードキル』クラスの大ボケ映画をイメージしたら大間違い。正統派の痛快活劇だ。
東西の腕利きスパイたちがフランスに会し、謎のスーツ・ケースを追い、争奪戦を繰り広げる。設定は懐かしのテレビ『必殺仕事人』を彷彿とさせ、展開は陰謀、策略、裏切りの連続。
アクション・シーンは、SFXに頼りすぎない手作りだから出る、迫力とスリルの連続。ニースの石畳の細い坂道で繰り広げられるカー・チェイス、パリのセーヌ河岸の橋を利用した銃撃戦、アイス・スケート・スタジアムの暗殺計画など、映画の醍醐味を満喫させてくれる。
そして曲者ぞろいのキャスティングに脱帽。主演(一応)のロバート・デ・ニーロがかすむほど、脇の役者が見せる。 ジャン・レノは日本公開作の中では最高にカッコいい。他にも欧米の映画・演劇界の重鎮や注目株が勢揃い。普段舞台やアート系映画にしか出ない役者たちが、カネのために悪役や汚れ役を演じ、実にいい味、出してるのだ。
不気味なジョナサン・プライス、タフな美しさで魅了するナターシャ・マッケルホーン、『ジャッカルの日』で警視を演じたマイケル・ロンズデール、おまけにオリンピック選手のスケーター、カタリナ・ビットまで出演。
一番の買いは、デンマークの名優ステラン・スカルスゴールズ。憎々しいドイツ人役のを快演。今後ハリウッドで、一、二を争う悪役俳優として、きっとブレイクだ。
監督は『影なき狙撃者』『ブラック・サンデー』の名匠、ジョン・フランケンハイマー。"アクション映画は、こうやって作るんだ!"と監督の声が響いてくる、スクリーン炸裂の豪華巨篇だ。
(5月29日より7月2日まで、渋谷パンテオン他全国東急・松竹系にて公開)
[集英社『週刊プレイボーイ』No.23,1999年6月8日号]
ハイ・アート(1998、アメリカ)
★★1/2
キミの夢はなんだ? 成功することか? 大切なものを貫き通すことか?
『ハイ・アート』のヒロイン、シドの夢は"成功"だ。大学で批評理論を学んだ、写真雑誌の若い編集者。
デリダやドゥルーズを援用して無内容なことを語る件は、80年代の日本の蓮實とその亜流の、映画に関する文章を読むようで、大爆笑。つまり彼女、実はバカなのだ。
彼女がひょんなことから、埋もれたかつての人気女性写真家、ルーシーと知り合う。
このルーシー役がアリー・シーディー。かつて『セント・エルモス・ファイアー』で、「23歳にもなって、何もできない」と、フザケたセリフをホザイた女だ。その12年後のような役で、名演を見せる。
彼女は若くして成功し、ボロボロにされ、いまはレズの恋人とヤク中の日々。ルーシーは"大切なものを貫く"ため、有名人を食い物にする世の中から逃げたのだ。
シドはその才能に惚れ込む。公私混同の熱情で、ルーシーのカムバックに奔走する。だが、相手の"夢の崩壊"だけは理解できなかった…。
アート写真が主題というだけあり、アメリカ映画とは思えないほど、色彩が美しい。深い黒、柔らかな陽の光、鮮やかな原色で固めた撮影だけでも、一見の価値がある。
そして女性監督リサ・チョロデンコの、感傷を排した演出が、芸術が商業主義に食い荒らされていく過程をクールに描く。
スタイリッシュな美学のなかに、痛烈な社会批判を込めた、注目の傑作である。
そこで注目されたのが、80年代までサブ・カルチャーだった写真である。なかでも、かつて報道写真と同列だった、普通の人のポートレイトが、ナン・ゴールディンやラリー・クラークを筆頭に「芸術作品(ハイ・アート)」と評価される。だが、これら有名人の活動は70年代から続いており「新しい」ものではない。ルーシーが撮るのも、この種の写真。
(5月29日より6月25日まで東京シネマライズにて公開)
[集英社『週刊プレイボーイ』No.22,1999年6月1日号]
カラー・オブ・ハート(1998、アメリカ)
★★
『カラー・オブ・ハート』は『トゥルーマン・ショー』と『カイロの紫のバラ』と『バック・トゥ・ザ・フューチャー』を足して3で割ったような映画である。
こう書くとサイテーの映画のようだが、3本のどれよりも、感動的なすぐれものだ。
50年代オタクの男の子とイケてる系の女の子が、58年を舞台とした、アメリカ版『サザエさん』みたいな、白黒テレビドラマの世界に迷い込んで、大騒動が始まる。
この58年という目の付けどころがニクイ。白人至上主義のアメリカン・ドリームの陰で、プレスリーが台頭し、アフロ系イースト・コースト・ジャズが全盛を誇った時代。
つまり"ベトナム前夜"の古き良きアメリカが、転換点を迎えつつあった時代なのだ。
ドラマの登場人物は、毎日同じ事の繰り返し。それが現代っ子の奔放なセックスで、脳天打ち抜かれたように、予定調和の世界を崩してゆく。
ここまでだったら、ありがちパターン。だが、このキャラたちが、自分らしさを発見するとと、白黒だった人々が、カラーになってゆく。このひとつひとつのきっかけが、実に良くできてる。中でも「理想の母親」を演じるジョアン・アレンが、自分を発見する件は、笑いのうちに、なぜか感動してしまう。
カラーになった人々は、旧態依然を護る、白黒のままのキャラから、「有色人種」(!)として、弾圧を受けるのだ。自分らしさを発見したら、他人から差別される。何というブラック・ユーモア!
娯楽映画の枠のなかで、あくまでやさしいタッチを失わず、アメリカの病根を描いた脚本と演出は見事。
ドラッグとヘッジ・ファンドと、NATO空爆で荒み切った合衆国。「それでも頑張れば、キミだけの夢は見つかるよ」と、元気づけてくれる。
これは新たなアメリカン・ドリームを作り出そうとした、意欲的佳作なのだ。
「最近生きるてのるが、つまんない」と思ってるキミ。照れずに『カラー・オブ・ハート』を見なさい。"我が青春の一本"になるかもしれないぞ。
(5月22日より6月11日まで東京日比谷みゆき座ほかにて公開)
[集英社『週刊プレイボーイ』No.21,1999年5月25日号]
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