Office NESHA presents movie guide
Jul./Sep. 1998
プライベート・ライアン(1998,アメリカ)
★★★★★
『プライベート・ライアン』は、60年代以降合衆国で作られた戦争スペクタクルの最高傑作である。本作の前ではペキンパーやイーストウッドの諸作も、『地獄の黙示録』『ディア・ハンター』『フルメタル・ジャケット』『プラトーン』も、世界認識や人間洞察におとる、欺瞞的自己憐憫が産んだ過去の遺物である。
ヒューマニズムは平和をもたらさず、愛は地球を滅ぼすことが明らかとなったいま、20世紀を総括する偉大な映画が誕生した。
冒頭30分、「血のオハマ」の戦闘場面を見るが良い。劇場の床をも揺るがす大音響のなか、展開される圧倒的光景を体験せよ。その描写は絶頂期の黒澤明にも匹敵するが、黒澤のヒロイズムは、ない。筆者は衝撃のあまり、涙で画面が正視できなくなった。
続いて始まる、「ひとりの兵隊を救うために、8人の精鋭が激戦地に赴く」、矛盾に満ちた物語を追うが良い。人間の命の尊さ、それを踏み躙る憎しみの激しさと、博愛主義の葛藤が、目に見えるドラマとして繰り広げられる。その力強さと深い苦悩に震えよ。
2時間50分、退屈する瞬間は一秒たりとてない。ほとんど全編、泥と埃と血にまみれた戦場を舞台に、最上級のスペクタクルあり続けながら、英雄なき戦争の本質が、心に杭のように打ち込まれる。
人間が人間である限り、戦争はなくならないだろう。しかし人間らしく生きるために、殺さぬために、狂気に魂を委ねないために、不断の努力を続けなければならない。作り手の思が、一切の説教臭さをまとわず、記憶の底に残る。
『プライベート・ライアン』で、スピルバーグはデヴィッド・リーンを越えた。歴史に残る名作が、新作として誕生した瞬間に立ち合うことは、現代人全員の義務である。
[集英社『週刊プレイボーイ』No.38,1998年9月22日号]
北京のふたり(1998,アメリカ)
★★
『背徳の囁き』以降、ハリウッド一、牢獄が似合う男になったリチャード・ギア。彼が大陸中国の牢獄で、さんざん痛めつけられる新作が、『北京のふたり』だ。
だから往年の『プリティ・ウーマン』のノリを想像して女を連れて、甘いラヴ・ストーリー目当てで見に行くと、快い裏切りを受けるだろう。
ギアの役は、中国に衛星テレビの放映権を売り付けに行くプロパー。北京の夜で、クラブで美人と出会い、ヤニ下がって、ベッド・イン。朝目覚めると、女は冷たくなっていた。無実の罪で、中国の警察に逮捕されるギア
。 案の定、共産党政権下の国家でまともな裁判が行なわれるはずもなく、彼は死刑になることが、決定済みだった。
そこに「罪を認めれば、懲役刑で済むわよ」と勧めにくる、女国選弁護士。演じるバイ・リンが実に素晴らしい!文革で両親と辛酸を共にした経験から、何も見ない、何も信じない、と決めていた彼女が、口を開くことの重要さに目覚めてゆく過程を、存在感豊かに演じている。彼女を見るだけでも一見の価値あり。
中国の現状を多少なりとも知る人間にとっては、「そんなの、有り得ねえよ」と突っ込みたくなる展開もある。だがこの映画には「先進国アメリカの男が、未開の中国に正義の意味を教えてやる話」という居丈高さはない。逆にギアがバイ・リンを通じて、戦う意味を改めて知ってゆく中盤の展開は、お約束どおりとは言え、感動を覚える。
江沢民訪米に合わせて全米で封切り、という「政治的配慮」が逆に効を奏して、「正義は国境を越えて」というメッセージが、ストレートに伝わってくる。ハリウッドの良き伝統を感じさせる好篇である。
[集英社『週刊プレイボーイ』No.37,1998年9月15日号]
シークレット-嵐の夜に(1998,アメリカ)
★1/2
オスカー女優のジェシカ・ラング、オスカーが欲しくてたまらないミシェル・ファイファー、いまキレてる系女優の筆頭ジェニファー・ジェイソン・リー。この三人が共演して、題名が『シークレット―嵐の夜に』と来れば、相当エグイ映画を想像するだろう。
確かにエグイ。登場人物は、トラウマや心の病に苦しみ続ける。ただ、いま流行のサイコものとは、かなり違う。
これはアメリカの田舎の陰部を、かなり気持ち悪く、クソ真面目にえぐり出した映画だ。広いアメリカだから、田舎は逆に「出口なし」の牢獄になる、何でもありの牢獄に。
大農園主で、村で一番の実力者の父(ジェンスン・ロバーズ)が、老い先を感じ、畑を三人の娘に譲ろうとする。父を慕う末娘(J・J・リー)は、「仕事やめたら、パパ、ボケちゃうわよ」と分与に反対、父に勘当される。ここまでは『リア王』のパクリ。
末娘の予想通り、父は奇行を繰り返し、ふたりの娘に見放される。だが、それはかつて暴君だった父から、暴行を受け続けていた、ふたりの怨恨が噴き出す瞬間であった…
暴行の事実を忘れようとする長女役ジェシカの、抑制の効いた演技、最後まで父を赦そうとしない次女役ミシェルの執念の大芝居、そんな事実を知らない末娘役リーの、イノセントな動き。三人それぞれ、これまでと逆のイメージの役で、実力を発揮するのが映画最大の見所。ファンは見逃せない演技合戦である。
ただし、出てくる男たちはみんなエラソウで、無責任なだけ。ダメな男と不幸な女のドラマを、『キルトの綴る愛』の女性監督が「これでもか」とねちっこく、執念深く描く。
正直、ウンザリするところもある話なのだが、ここは三大女優の魅力に免じて、男の義務として、向き合っておくべき映画だろう。
[集英社『週刊プレイボーイ』No.36,1998年9月8日号]
キャラクター 孤独な人の肖像(1997,オランダ他)
★★★1/2
ぼくらが意識している以上に、人生はタイミングというものが重要である。「今しかない」という瞬間を逃したばかりに、ほんのわずか不器用だったばかりに、チャンスが永遠に失われる。その失点が、ときには数十年にわたる禍根を残すこともある。
『キャラクター/孤独な人の肖像』。舞台は、20年代オランダの運河の街、ロッテルダム。レンブラントを彷彿とさせる、焦茶を基調とした水都。ある倉庫のなかに若者が飛び込んでゆき、いきなり老人に飛び掛かり殴り倒す。
こんな唐突なファースト・シーンから、「いったい、何が起こったのか?」という謎が、ラストぎりぎりまで解けない話術の巧みさに脱帽。
この若者ヤコブ・ヴィレムと老人アレントは、実の父子なのだが、母親は生涯独身を通した。アレントを愛していなかったわけではなかった。ただ、アレントはあまりに不器用すぎた、それが彼女を頑なにさせたのだ。
幼いヤコブ・ヴィレムは見知らぬ父を探し求めるが、アレントは市民から嫌われる税官吏兼金貸しだった。ふたりの初対面は意外な形やってきて、息子は父の名誉を汚してしまう。
その日から父と息子のパワー・ブレイが始まる。成人したヤコブ・ヴィレムは銀行家として頭角を表し、父アレントに復讐しようと仕事の虫となる。そこに立ちふさがるアレントの影。ただそれは、自分が父の二の轍を踏む道でもあった…
オランダの国民的文学を、じっくりと、しかしテンポ良いミステリーに仕上げ、アカデミー外国語映画賞を受賞した逸品。一風変わった、力強く、やがて哀しき男の、骨太のドラマが堪能できる。夏の大作のスカスカぶりに失望した読者にお薦め。
[集英社『週刊プレイボーイ』No.35,1998年9月1日号]
ライブ・フレッシュ(1997, 西-仏-日)
★★1/2
スペインの首都、マドリードに戒厳令が敷かれた夜、バスの中で娼婦が産み落とした赤ん坊。彼ヴィクトルが90年代に人の心の迷宮をたどる『ライヴ・フレッシュ』。
軍政から解放されたが、不況で荒み切ったマドリード。純情なヴィクトルは初体験をトイレの中で迎えるが、相手ヘレナはジャンキー女。彼のことなど覚えていなかった。騒ぎを聞き付けた若い堅物刑事ダビドとアル中の中年刑事サンチョ。そこで放たれる一発の銃弾…四後出所したヴィクトルは、自分の青春を奪った人々に、復讐を誓う。
映画の焦点は、年月を経て変わってゆく、人間の心の揺らぎに絞られてゆく。撃たれたダビドはパラリンピックでスターとなり、エレナと結婚、裕福な生活を送っている。それがヴィクトルがヘレナをストーカーまがいに尾けているのを知り、ダビドが逆にヴィクトルを尾行する。そして明らかになる意外な事件の真相。様々に幸せを求める人々が、歓びと悲劇が交錯するラストへと向かってゆく。
原作はルース・レンデルのミステリー。それを大胆に脚色したこの映画、人間のドロドロした情念より、心理の細かな襞を描く。そこにマドリードの街の変貌、原色中心の色彩設計が加わり、1時間41分、スリリングかつ濃密な作品と仕上がっている。
監督はペドロ・アルモドバル。アート系映画ファンは「えっ!?」と声を挙げるだろう。ここには過去の彼の映画のような大ボケやキッチュな遊びはない。だが、俳優のアンサンブルも含め、骨太の演出は称賛に値する。それを監督の成熟と呼ぶのだ。
アルモドバル版『インテリア』『マンハッタン』とも言うべき傑作。色眼鏡抜きで見て、堪能してほしい。
[集英社『週刊プレイボーイ』No.33/34,1998年8月18日-25日合併号]
アタラント号(1934/89,フランス)
★★★★★
ジャン・ヴィゴ唯一の長編で遺作となった『アタラント号』がリバイバルされる。日本中、いや、世界中の映画ファンが、見逃せない一本だ。
映画が娯楽だか芸術だか知ったこっちゃないが、ここには映画の原点としか言いようのない姿がある。
ストーリーは極めて単純。船員が恋人と結婚式を挙げ、なんと貨物船アタラント号のなかで新婚生活を始める。オモチャ箱のようなキャビンの中には「七つの海を飛び回った」と豪語する、初老の船員が相棒のサルとともに同乗。セーヌ川をさかのぼり、パリへの航海に乗り出す。途中でからむマジシャンのような行商人。新婚のふたりは些細なことで喧嘩して、やがて仲直りするハッピー・エンド…
なんでこんな物語が不朽の名作として、今なお生命を保ち続けているのか? 自分の眼と耳で確かめてほしい。この作品に溢れている自由の空気、想像力の豊かさ、人生への、生命への讃歌を。
冒頭、野原を婚礼の行列が通るシーンの、白黒映像の美しさと深呼吸したくなるような空気。名優ミシェル・シモン演じる初老の船員の、型破りなキャラクターの醸し出す笑い。新婚夫婦のどこにでもありそうな話の、心の揺らぎを繊細にとらえる演出と撮影、編集。そして伝説となった、セーヌ川、水中での花嫁衣裳の乱舞とキス・シーン(カラックスが『ポンヌフの恋人』でパクッた)……真に映画を愛する者、誰もが胸を熱くする瞬間が劇場で待っている。
映画ファンを自称する諸君、『アタラント号』を見よ。何も心を動かされなかったら、君は映画を暇つぶしやファッションと考えているだけなのだから、「趣味は映画」などと言ってはならない。
[集英社『週刊プレイボーイ』No.32,1998年8月11日号]
JANIS (1974,アメリカ)
★★★★1/2
フラワー・チルドレン・ムーヴメントたけなわの60年代末、ミュージック・シーンに彗星のごとく表れた、アメリカン・ロックのディーヴァ、ジャニス・ジョプリン。
顔は田舎者丸出しのデブの女の子は、真の愛と自由を求める痛烈な思いと、絶望的孤独を文字通りシャウトし、全世界を仰天させた。それまでの音楽になかった、しかし誰もが必要としていた「切なさ」を、叫びとして表現したジャニス。彼女なくしてパンク以降のロック・シーンはなかったといっても過言ではない。
だがその活動は丸三年を経ず終わりを告げる。自殺か、薬物中毒か…謎の死により、ジャニスは「伝説」になった。
彼女の数少ない貴重なライヴ映像を集めたドキュメンタリー『JANIS』は、この種の映画としては最上級の完成度を誇る傑作だ。
ジャニスを知らない、若い世代に見てほしい。画面からはち切れそうに踊り狂いながら「トライ」などのオリジナルと、彼女の愛したブルースを、同じ絞るようなスタイル歌い上げる姿に、血がたぎるに違いない。(歌詞に字幕を付けた配給会社に拍手!)
そしてCDでそのナンバーを聞き返したくなる。ライナーで波乱の生涯を知った後、もう一度劇場に足を運んでほしい。エンド・タイトルの「ミー・アンド・ボビー・マギー」で、涙をこぼしたとき、君はジャニスの仲間だ。
91年の日本初公開時に興奮したジャニス・ファンも、また見なおしてほしい。スクリーンの彼女に改めて勇気づけられるために。そして「ありがとう」とつぶやくために。
ひとりでも多くの人にジャニスを好きになってほしい。そして彼女を忘れないでほしい…そんな作り手の思いが、年月を経るごとに輝きを増してくる。これこそ真の、愛の映画だ。
[集英社『週刊プレイボーイ』No.31,1998年8月4日号]
ボンベイ(1995,インド)
★★★
一本で映画二本分楽しめる、傑作『ボンベイ』がやってきた。発信地は一部オタクの間で話題のインド、タミル語圏。
2時間40分の長さに、想像を絶する世界が待ち受けている。 全編二部構成の第一部はヒンズー教徒の男とイスラム教徒の娘のラヴ・ストーリー。郷里の村で互いの両親に猛反対され、大都市ボンベイで結婚する。「だからどうした」という、どうってことない物語が、インド映画のミュージカル・ナンバーにのせ、見ているこちらが椅子の上で体をヨジラセたくなるくらい、こっぱずかしい程に臆面のない、歌詞と踊りと歌で展開されてしまう。
映画的リアリズムを無視したカッティング。インドの民族舞踊とマイケル・ジャクソンの「BAD」がまぜこぜになったようなダンス、「新婚初夜だぁ、やっと結ばれるぅ」と謳い上げるオソロシイ歌詞。
「こんなの、映画館で上映していいんだろうか?」と当惑するか、「香港映画よりエグイ」と喜ぶか? いずれにしてもこれが「映画大国」インドの典型的娯楽なのだ。
ところが後半、92年ボンベイで現実に起きた、ヒンズー教徒対イスラム教徒の血の内乱が再現されるに至り、インド映画的雑駁さと荒々しさが、都市の暴動を映画史上稀に見る迫力で描き出す。充分なリアリティと共に、かつてこの種の映画が実現したことのない衝撃が襲ってくる。
監督マニヤトラムはその場面までミュージカルにしてしまった。それが逆説的にジャンルの壁を破り、監督のアラヴィンダンやサタジット・レイに匹敵する、世界に通用する才能を証明している。
夏にふさわしく、エスニック文化に触れる歓びと、アジアに対する潜在的蔑視を裏切られる体験の機会を逸するな。
[集英社『週刊プレイボーイ』No.30,1998年7月28日号]
チェイシング・エイミー(1997,アメリカ)
★★1/2
今週は夏の恋愛にふさわしいお題を――「なぜ男は、彼女の昔の男やセックス遍歴を気にするのか?」
『チェイシング・エイミー』の主人公は、アメリカの若き藤子不二雄と言った感じの、売れっ子コミック作家二人組。堅物で純情なホールデンと、オタク丸出しのオゲレツなバンキーは少年時代からの親友。ふたりは見本市(コミケじゃないよ)で、知的で美人の同業者、アリッサと知り合い、恋の鞘当てが始まるが、彼女は両刀使いだった。
奔放というより「売れ線狙いでなくて、自分の表現したいことを書きたい」という、一途なアリッサを射止めたのは真面目なホールデン。だがお節介な告げ口で、ホールデンはアリッサの過去を知る。彼女はハイ・スクール時代、名うてのヤリマンだったのだ。目の前のピュアなアリッサとのギャップに苦しみ、ホールデンは遂に本人に真偽をただす。その答は「本当よ。でも若気の火遊びがが今のあたしたちの関係の障害になるの?」
いかが? 似たような体験にドキッとした読者もいるのでは?
ことセックスが絡むと男は情けないほどバカになる。「大切なのは経験の数ではなく、いまこの瞬間のふたりなのだ」という事実を放り出して。
そんな間抜け男を『グッドウィル・ハンティング』のベン・アフレックが好演。アリッサ役のジョーイ・ローレンス・アダムズに嫌味がなく、我が強いけどデリケートな女性像を成立させているのが最大の成功。
日本の現状にずばりハマッてる、ちょっとキワドくて、友人に相談しにくい問題を、フランス映画みたいに深刻ぶらず、ユーモラスに、明るく描き、ラストのキメの巧さにジンとくる秀作。夏を前に、この映画で心の準備をしておくように?
[集英社『週刊プレイボーイ』No.29,1998年7月21日号]
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