Office NESHA presents movie guide
Jul./Sep. 2003

目次
(この色の作品は★★★★以上獲得作品です)
レイティングは★★★★★が最高点。
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サハラに舞う羽根
ぼくの好きな先生
イジー・トルンカの世界
HERO
パンチドランク・ラブ
マイ・ビッグ・ファット・ウェディング
労働者たち、農民たち



サハラに舞う羽根(2002,英―米)
★★★

  19世紀末のイギリス。若き貴族で職業軍人のハリーは、植民地戦争従軍を拒否し、除隊する。しかし親友、婚約者から臆病者と非難され、名誉を挽回するために、単身アフリカはスーダンに渡り、友人を救うため、捨て身の戦いに飛び込んでゆく。
  勘の良いキミなら、アカデミー賞狙いの”文芸ロマン大作”であると想像が付くだろう。ところがこの映画、ノミネートはおろか黙殺され、興行的にも大失敗に終わった。
 それはインド人監督シェカール・カプールが、製作者の思惑を裏切り、『アラビアのロレンス』以 来、米英映画界のタブーとなっている、「植民地主義白人の負け戦」を、迫真の映像で描ききったからだ。
  正直、最初の一時間弱は、『タイタニック』のように平板な人間ドラマに終始する。しかし舞台がアフリカに移ると、とんでもない地獄絵図が展開する。
  灼熱の砂漠のど真ん中で、方陣を組んで銃火を浴びせる英国軍。イスラム教徒のスーダン反乱軍は、騎馬隊を組んで、命知らずに突っ込んでくる。敵を全滅させたと、英国軍が気を緩めた瞬間、凄惨な反撃が始まる。
  戦闘描写の随所に黒沢明の『影武者』やジョン・フォードの『アパッチ砦』、マカロニ・ウェスタンの諸作、ひいては『ディア・ハンター』まで、映画史に残る戦闘場面の設定や構図、カメラ・ワークが盛りだくさん。古い映画ファンには、倍返しの悦楽をもたらしてくれる。
  昔の映画を知らなくても、CGにほとんど頼らない、アナログ流血戦は、重量感たっぷり、アドレナリン分泌量が倍増する。
  逆にイラク戦争にはやる米英人は、白人がイスラム教徒にボコボコにされる描写を見て、実は怒ったのではないか? だとしたら、米英で受けた冷遇は、この映画が衝撃力を持っていることの証だと言える。オスカー獲得ゼロも、勲章なのだ。
  そう考えるとドラマ部分も、「名誉のため」と称して侵略戦争に行く、ぼんぼん貴族の愚かさを、大根若僧スターを集めて、空虚に描いたとすら思えてくる。ハリウッドの資本を使って、アナログ戦争スペクタクルを復活、その上植民地主義を批判した、したたかな注目作である。

(9月20日より日比谷映画他全国東宝洋画系にてロードショー)
[集英社『週刊プレイボーイ』 2003年No.38 9月16日号]


ぼくの好きな先生(2002,フランス)
★★★1/2

 『ボーリング・フォー・コロンバイン』の大ヒットで、一般映画ファンから、劇場向けドキュメンタリーが注目され始めている。
  ニコラ・フィリベール監督は、世界の映画祭で注目される重要な記録映画作家。今回『ぼくの好きな先生』で、フランス小村にある、寺小屋式小学校を半年にわたり撮影した。
  定年を間近に控えたロペス先生の学校に通ってくる子供は13人。日本だと幼稚園などに通う3才の子供と11才の子供が、一つのクラスで学んでいてビックリする。
  ロペス先生は幼い子供から思春期を目前に控えた子供まで、分け隔てなく膝を屈し、子供の目線で粘り強く会話を続ける。児童の私生活にまでさりげなく目配せしつつ、しつけの側面もおろそかにしない。子供を一個の人格として尊重しつつ、何が正しくて何が間違っているか、確信を以て説く姿は感動的だ。
  子供たちは、みな嬉々として学校に通ってくる。少し怠け者でワガママなジョジョ4才、おしゃべりな東洋系のマリー4才、お父さんの農場を手伝う男の子ジュリアン10才、内気で家族にも心の内をなかなか見せないナタリー11才。その愛くるしさに、映画が終わったときには、全員の顔と名前を覚えてしまうほどだ。
  未成年者による不気味な犯罪が増えている現代の日本に、この映画はかけがいのないものをもたらしてくれるだろう。

(9月27日より東京・銀座テアトルシネマにてロードショー)
[メディアファクトリー『ダ・ヴィンチ』 2003年9月号を改変]


イジー・トルンカの世界(1947-65,チェコ・スロヴァキア)
★★1/2−★★★★★

  キミはイジー・トルンカを知っているか?東欧はチェコで不滅の人形アニメの名作を生み出し、チャップリン、ディズニー等と並び称される映画の神様。世界中のアニメや人形劇も、この巨匠の多大な影響を受けている。
  たとえば『千と千尋の神隠し』に登場する湯娑婆の息子、ボウの部屋は、トルンカがアンデルセン童話を映画化した『皇帝の鴬』(★★★★)の皇帝の部屋にそっくり。『モンスターズ・インク』などを放つピクサーのキャラクター・デザインも、トルンカからイタダイたものが少なくないのだ。  ところがトルンカの長編作品は、日本ではほとんどが劇場未公開だった。そんな彼の代表作が、遂に一挙上映されるというのだ。これは宮崎駿の新作が公開される以上の事件である。
  トルンカ作品の魅力は、夢見心地の恍惚感にある。チェコ民話を題材とした『バヤヤ』(★★★★)は、愛のために龍退治などの試練に立ち向かう王子の物語。ゲーム・ファンなら堪えられない活劇に胸が躍る。その上胸が疼く歌詞の主題歌は陶酔を招き、金銀が闇にキラキラ輝く映像は、溜息が出るほど美しい。日本のサーガ系アニメの源流はここにある。映画ファンなら歓びに胸を震わせることも、必定である。
  トルンカは短編映画の神様でもある。すっとぼけたユーモアが癒し系の笑いを誘う『兵士シュヴェイク』(★★★1/2)シリーズ、特撮マニアがうずくSF『電子頭脳おばさん』(★★1/2)、社会主義体勢を背筋も凍る恐さで皮肉った『手』(★★★★)などなど、ジャンルを問わない傑作陣は、まさに巨匠業だ。
  その芸術の頂点が『真夏の夜の夢』(★★★★★)。妖精の世界をまばゆい美しさ官能的に描き、人形が大人の女の色香を漂わせるのには、愕然とするしかない。しかもラストでは、原作でシェイクスピアが放った“恋とは所詮一夜の夢”という、メッセージが覆される。人間の永遠の憧れを歌い上げ、胸を締め付けるような恋の切なさが匂い立つ。究極のファンタジーと呼ぶにふさわしい、至福の瞬間なのだ。
  人形アニメの“神”の手が紡ぎ出す、極上の夢の森。TDLを卒業した彼女との夜のデートにも最適。二人で美と笑いとファンタジーの奔流に身を任せよ。

(8月16日より東京・渋谷 ユーロスペースにてロードショー)
[集英社『週刊プレイボーイ』 2003年No.36 9月2日号]


HERO(2002,中国)
★★★1/2

 『グリーン・デスティニー』に続き、また中国映画がやってくれた。ドラマ・登場人物・映像のいずれも充実。シリーズものの続編や、DVD販売の前宣伝のようなCGアクションでは味わえない、ずっしり手応えがある歴史大作の誕生だ。
  時は戦国時代末期。秦が天下統一を達成しつつある頃、諸国は刺客を放ち秦王を亡き者としようとする。うち最強の刺客三人を倒したという男が、褒美を貰いに秦王に謁見を願い出る。しかし話は微妙に食違いを見せ、男の意外な正体が顕わになる。
  香港映画やワイヤー・アクションが苦手なキミにも見てほしい。「セコイ」「ワザとらしい」という先入観を覆す、序破急の絶妙なバランスに唸ること請け合い。洗練されたアクション美学を堪能できる。
  なぜなら監督がチャン・イーモウだから。彼は国際映画祭で数多の賞をさらった現代中国映画界屈指の俊英。『赤いコーリャン』の映像美、『あの子を探して』のリアリズム人情話など、様々なジャンルの映画を産出。その傍ら紫禁城でオペラ『トゥーランドット』を上演する大プロジェクトも手懸けてきた。その監督が初めてオール・スター歴史大作に取り組むのだから、並の映画になるはずがない。
  ドラマは芥川龍之介の『薮の中』スタイル。全編を5つのパートに分け、黒、赤、青、緑、白の色彩を鮮やかに展開。その光と影を見るだけでも酔える。
  そこにジェット・リー、ドニー・イェン、トニー・レオンら男性スターのワイヤー・アクションが加わるのだから、堪らない。最新鋭CGをツールとして使いこなし、新世代のチャンバラ対決を展開。マギー・チャンとチャン・ツィイーの新旧美女の真剣勝負も舌を巻く迫力だ。
 更に囲碁、書道と剣術の道の共通点を目で見せる演出は、大半が映画のための創作とは思えぬ程、真に迫っている。また秦の大群が弓の大群で学問所に矢を雨と振らせるシーンは、鉄の矢が瓦を突き破る重量感と、圧倒的な数に言葉を失う。
  『七人の侍』など、黒沢明の時代劇にも通じる興奮が体験できるチャンス。1時間38分という上映時間も潔い。必見!

(8月16日より丸の内ルーブル他全国東急系にてロードショー)
[集英社『週刊プレイボーイ』 2003年No.33 8月12日号]


パンチドランク・ラブ(2002,アメリカ)
1/2

  ここ数年注目を受けている映画監督には、MTV上がりの人が多い。従来の映画になかった切り口やセンスは、MTVなど見ない批評家や映画マニアに「新しい!」と激賞された。
  ところがこの手の監督、2本目以降は大概つまらない。3分程度のビデオ・クリップなら、新奇な着想やセンスの良さだけもまとめられるけれど、1時間半からの長編映画は、物語に太い柱がなければ息切れするからだ。登場人物に魅力がなければ、観客を引っ張り続けることはできない。
  この映画はまさにその典型。主演は米国で人気のコメディ俳優アダム・サンドラー。小心だがキレると暴力を揮いまくる、珍妙な男の恋を描いた映画。
  素直にコメディにすればそれなりに面白そうな話なのに、監督の気取りがすべてをぶち壊しにしているのだ。
  気取ったカメラ・アングル、思わしげに挿入されるカラーバーのようなタイトル、間延びしたようなシーンのつなぎなど、小細工がうるさい。その上セリフが極端に少なく、俳優の動きも小さいから、ドラマが広がらずストーリーも平板なまま。そのクセ音響は妙に凝っている…
  つまりこれは3分のビデオ・クリップを、1時間半に水増ししたにすぎない代物なのだ。
  監督のポール・トーマス・アンダーソンはやはりMTV出身。70年代カルチャーと無邪気に戯れた『ブギーナイツ』で注目されたが、続く『マグノリア』は、3時間近い上映時間に、似たような小さなドラマが並んでいるだけの退屈な映画だった。
  今回はもっと質が悪い。素直に作ればいいお話を、アーチスト気取りに勿体付けた結果、批評家受けを狙う卑しい根性が露呈している。今年33歳という若手なのに、権威に媚を売り、魂のかけらもない映画を作る姿勢は見苦しいかぎりだ。
 そんな姑息な監督の下心を見抜けず、この映画に賞を与えたカンヌ映画祭はもっと情けない。MTV的新しさなんか、いまどき珍しくもなんともない。映画オタクな関係者は、そんなことも知らないのだろう。
  欧米の批評家の目は騙せても、日本の観客は騙されないはずだ。


(7月26日より東京・恵比寿ガーデンシネマにてロードショー)
[集英社『週刊プレイボーイ』 2003年No.31 8月29日号原稿の草稿第2稿]


マイ・ビッグ・ファット・ウェディング(2002,アメリカ)
★1/2

  昨年夏、アメリカ映画界に大事件が起きた。スターも出ていない、派手なCGもスペクタクルもないコメディが、興収歴代ベストテンに食い込むメガヒットを飛ばしたのだ。『マイ・ビッグ・ファット・ウェディング』がそれだ。
  イケてないヒロイン、トゥーラは、親の経営するレストランを手伝う退屈な日々。「人生を変えたい!」と一念奮起。大学のコンピューター・クラスに通い、親戚が経営する旅行代理店に就職。そこで理想の彼氏をゲット。めでたくプロポーズされるが、やかましい家族・親戚があれこれ口を出し大混乱。果たしてトゥーラは、幸せな結婚に漕ぎ着けることができるのか!?
  ドジで間抜けな女の子が「そんなキミが一番好きだよ」と言ってくれる彼氏と出会う…これは、日本の典型的ラブコメ少女漫画と同じ展開。「少女漫画」は存在しないアメリカでは、それが新鮮だったのかも。日本人にとっても、いい感じに懐かしい世界だ。
  もっともそれだけで、人種のるつぼアメリカで勝ち組に入れるはずがない。一番の見所は、ニアのコテコテに濃い家族たちなのだ。
  トゥーラの一家はギリシャからの移民。ギリシャはいまも大家族主義。何かというと親戚が集まってパーティを開き、飲めや歌えのバカ騒ぎ。「俺が家長だ」と偉ぶってるが気の小さい父親。夫をうまぁく操縦しニアの味方になってくれる母親。ギリシャの模範的母親になりつつある姉。画家志望で下ネタギャグ連発の弟。旅行代理店を仕切る叔母。ギャアギャアわめく甥っ子たち…こんな暑っ苦しい家族が、吉本新喜劇真っ青の、要らん大騒動を巻き起こす。
  ドラマの根底には「白人社会と移民社会のカルチャー・ギャップ」というテーマがある。日本でも東京と大阪と対立をはじめ、地域間カルチャー・ギャップは根強い。「恋人の家族を好きになれるか?」というのは、洋の東西を問わず、結婚の大きな障壁。身につまされる日本人も、結構いるのでは?
  ラブコメと「吉本」が一体となった、クドイ笑い。一度ハマルと病み付きになりそうだ。

(7月19日より東京・丸の内プラゼール他全国松竹洋画系にてロードショー)
[角川書店『東京ウォーカー』 2003年7月22日号]


労働者たち、農民たち(2002,仏−伊−独)
★★★★

  60年代から政治的・戦闘的作品だけを手懸けてきた、ジャン・マリー・ストローブとダニエル・ユイレの両監督。筋金入りのインディーズ作家が、金儲け主義に堕落しきった、現代映画界に牙を剥いた新作を放つ。
  二時間を越える上映時間、十人ほどの人間が、イタリアの森の中で、小説の一節を朗読・暗唱し続ける。映画はその様子を撮影し、録音するだけ。俳優はほとんど棒立ちで動きらしい動きすらしない。音楽も皆無だ。
  ボーッとしてると何が何だか分からなくなるだろう。だがそこがこの映画の狙い。監督はここで、観客が受身に甘んじる見方を拒み、全感覚、全神経を映画に集中することを要求しているのだ。
  デジタル全盛の現代、人間は自分で考えなくなった、と批判される。だがそれ以前に、テレビ・映画からは音量マックスのサウンドと、目紛るしく変わる映像や画像が氾濫しているいま、自分の目で見る、耳で聞く、心で感じることをしなくなっているのではないか?戦争の時代を迎えた新世紀に、そんな受け身人間が生き残れるのか?
  この映画の哲学は「分かる人だけ分かれば良い」という傲慢ではない。最先端を走り続けた前衛映画作家「この程度のものが分からなくてどうする!?」と叫ぶ、時代への警鐘なのだ。
 事実、全神経を集中してみると、木々のちょっとしたぞよめきや、遠くに流れるせせらぎの音は、体が震えるほどドラマティック。徐々に色彩と高度を帰る陽の光は、戦慄を覚えるほどに美しい。
  朗読されるイタリア人作家ヴィットリーニの小説を聞く内に、「これは何の話なのか?」「“彼”って誰のことだ?」と、次々に疑問が起こる。それを読み解くことは、どんなサスペンスよりも、知的好奇心を掻き立てられる。映画の原初、ドラマの始原を丸裸にしたような生々しが衝撃的だ。
  やがてただの森にしか見えなかった映像が、人間と世界の混沌そのものを映す舞台だと分かる。そのとき「これこそ映画なのだ」という確信と、感動に襲われるだろう。この映画を見ることは、自分の五官の試練である。挑戦せよ!

(7月25日-8月9日[日曜除く]東京神田・アテネフランセ文化センターにて上映)
[集英社『週刊プレイボーイ』 2003年No.29 7月15日号]


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