映画を武器に闘う監督たち



  いきなり言い訳から始めさせていただきます。
  以下に掲げる原稿は『キネマ旬報』第1321号2000年12月下旬号)に掲載されたものの掲載稿です。ただし、作品名の「 」のみ、日本正式公開作を『 』で括る形に改めました。
  これは「企画特集 闘う監督アンジェイ・ワイダ」の中のひとつとして、「今年正月から来年にかけて新作公開予定のある人で、"社会派"と呼べる人のことを書いて欲しい。たとえばイム・グォンテクとか」と依頼を受けてまとめたものです。冒頭で『パン・タデウシュ物語』や『春香伝』について強引に言及しているのは、このような経緯によります。
  また「日本で知られている監督を」との要望もあったので、マイナーな人(たとえばエチオピア時代に『三千年の収穫』を発表し、いまは合衆国に移住し、母国を舞台に作品を作り続けているハイレ・ゲリマなど)は取り上げられませんでした。本稿執筆段階では、ジャンニ・アメリオの『いつか来た道』が日本で公開になることを知らなかったことも付記しておきます。
  その辺については同誌の執筆者紹介欄で、次のような苦しい言い訳を書きました:
 「今回は字数の都合上、アジアやアフリカ、中近東の作家についてきちんと言及できずごめんなさい」
  なお、この「映画を武器に闘う監督たち」という題名と、雑誌掲載稿にある小見出し(本サイトでは削除しました)は、編集部の意向で付けられたものです。


  『パン・タデウシュ物語』は古典叙事詩を歌舞伎と黒澤、シェイクスピアのスタイルを意識して構成した、大変面白い時代劇だ。だがこの作品をワイダの「闘う社会派」映画、と呼ぶのは、多作家で広範なテーマを扱うワイダに対しても、『鉄の男』など、彼の真の「社会派」映画陣に対しても失礼だろう。

  それはイム・グォンテクの『春香伝』を「社会派映画」と呼ぶようなものだ。全編パンソリの歌唱をバックに、人口に膾炙した勧善懲悪の悲恋物語を、見応えのある作品に仕上げ、族譜の支配がまだ強い韓国社会で、春香の物語がいまなおアクチュアルな問題であると伝わってくる逸品である。ただ「社会派」と呼ぶなら、同じ韓国でもイ・チャンドンの『ペパーミント・キャンディー』やビョン・ヨンジェの「ナヌムの家」シリーズ[『ナヌムの家II』の記事、『息づかい』の記事あり]を挙げるべきである。

  さて現役「闘う社会派監督」を概観すると、米国にはワイダに並ぶ存在として、シドニー・ルメットがおり、『NY検事局』『グロリア』などで気を吐いている。

  フランチェスコ・ロージが一線を退いたヨーロッパで、筆頭に挙がるのは『アメリカ』のジャン=マリー・ストローブとダニエル・ユイレのコンビだ。12月公開の『シチリア!』は、それまでの情報過剰なまでの理知的作風を脱する美学的新境地と、世紀末左翼の無力感を打破する思想的展望――漠然としてはいるが――を同時に示す、素晴らしい作品である。

 『落葉』『田園詩』のオタール・イオセリアーニも、社会派と呼べるだろう。母国グルジアからフランスに活動の場を移した後も、マテリアリズムと官僚主義を風刺、批判する作品を発表。ソ連崩壊後に手懸けた「群盗第七章」で中世、ソ連時代、独立後の現代を『イントレランス』にも匹敵する形式と迫力で描写し、いつの時代も変わらない政治の暴力を訴えている。来年日本公開される新作「さらば、わが家」の流麗なコメディにくるんだ現代批判とならび、正式公開が待たれる。

  また昨年11月、新作「シティズ・オブ・プレイン」[山形国際ドキュメンタリー映画祭にて「平原の都市群」題で上映]のポスト・プロダクション中、鬼籍に入ったロバート・クレイマーの主要作も、わが国では正式公開されていない。映画祭で注目を浴びた東西冷戦崩壊後のヨーロッパの混迷を、人種問題と共に描く「ウォーク・ザ・ウォーク」は、90年代最高傑作の一本。「人民の戦争」「出発点」[山形国際ドキュメンタリー映画祭にて「スターティング・ポイント」題で上映]「Saykomsa」のヴェトナム三部作、合衆国時代の代表作「マイルストーンズ」、ナチズムの論理が責任追及する新左翼の側にも存在することを暴いた「我らがナチ」など、日本未上映の作品がまだまだ控えている。

  このように、わが国で本格的紹介が進んでいない、社会派作家は少なからずいるが、大半は第二次大戦終戦までに生を享け、60年代末までの政治の時代を生きた監督ばかりだ。チャンドンは光州事件の体験者で、やはり「政治の季節」を生きている。

  50年代以降に生まれた、戦争や政治的混乱を原体験に持たない世代の「闘う」監督は、『小さな旅人』のジャンニ・アメリオ、『掟』のイドリッサ・ウエドラオゴら少数の例外を除き、「社会派」の劇映画ではなく、ヨンジェのように、記録映画に向かっている。

  これは世代の問題だけではなく、映画を取り巻く環境の変化も原因だろう。映画産業の斜陽と共に、フィルム代、現像料、サウンド・スタジオ使用料が高騰し、自主映画製作の環境は厳しくなった。同時により広い観客にダイレクトに問題提起するには、映画の巡回上映より、テレビの電波に乗せるかビデオを貸し出した方が浸透するようになった。

  世界的なテレビの活性化にともない、劇場用作品は「なぜ、映画なのか」という問題と取り組んだ結果、娯楽作品と極端な作家性を追求する作品に二分されてゆく。そんな環境のなか、かつての社会派、ゴダール、アンゲロプロス、タヴィアーニ兄弟、ケン・ローチなどは、左寄りインテリ向け癒し映画の職人になってしまった。ホルヘ・サンヒネスの「鳥の歌」にすら、同様の危機がやや匂う。

  そんななか、社会派映画には新たな流れが生まれていることにも、注目したい。

  第一にアキ・カウリスマキに代表される、社会の底辺に生きる人々を描く彼方に、社会への批判や怒りを見せる監督。『マルセイユの恋』のロベール・ゲディギャンの日本公開待機作「心の代わりに(原題)」[邦題『幼なじみ』に決定、2001年夏公開]は、マルセイユのアフロ系の若者と白人の少女の恋が、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ内戦問題まで展開される傑作である。ドイツの新人、ファイト・ヘルマーの『TUVALU』のように、自分の物語を力強く追求した結果が、90年代ヨーロッパの縮図となった作品もある。

  第二に、合衆国を中心に、商業映画を作り続けるために研鑽の結果、より開かれた社会への眼差しを獲得した監督。代表格は『スペシャリスト―自覚なき殺戮者』で、デジタル合成による記録映像の新たな見せ方を開拓し、アイヒマン問題を現代社会の病巣とつないで表現することに成功した。森達也の『A』ように、デジタル・ビデオ撮影により、従来の16ミリカメラではとらえられなかった現場へと食い込んでゆく姿勢も、今後の展開を見守りたい。

  最後に、日本で現在、社会的問題提起と映画的完成度を両立させる最高の監督は、『平成狸合戦ぽんぽこ』『ホーホケキョ となりの山田くん』の高畑勲と、『十五才 学校IV』で「男はつらいよ」シリーズ精神を現代に蘇生させた山田洋次だ。齢六〇を優に越えるこの二人より、逞しく「闘う」監督がいないのは、嘆かわしいかぎりだ。

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